カイト・カフェ

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「いじめの加害者の、内にある被害者意識の話」~高垣忠一郎氏を偲んで②

 なぜいじめはなくならないのか、
 なぜ加害者は、あんな残酷なことを、平然と、執拗にできるのか。
 この疑問にきちんと答えてくれたのは、
 高垣忠一郎氏ひとりだけだった。
という話。(写真:フォトAC)

【いじめの加害者の内にある被害者意識】

 私が高垣忠一郎氏からもらったもうひとつの「子どもを見る重要な観点」は、「いじめの加害者の内にある被害者意識」です。
 高垣はいじめの加害者について、こんなふうに言うのです。
「小学校の低学年においては、その発達段階からみて、自己客観視に必要な認識面での能力そのものが未発達であり、それゆえ自分のしていることの客観的な意味を自覚できず、加害者意識に乏しくともしかたがない面がある。
(中略)
 しかし高学年にもなってくれば、自己客観視に必要な認識面での能力は、それなりに発達してきているはずであり、それができないとなれば、自己客観視を困難にする他の要因を考えねばならない。
 そのような要因の一つとして考えられるのは、被害者意識である。いじめる側の心のすみにでも被害者意識があれば、それが邪魔をして、自己の加害者としての立場に気づかせないことが往々にしてある」(『登校拒否・不登校をめぐって』《青木書店、1991》)

 ここには三つの重要な指摘があります。
 ひとつは、平然といじめが行われるのは実行者の内面に加害者意識がないからという点で、それが生まれて十分に育てば、いじめはなくなる可能性があるということ。もうひとつは、実行者の内面に加害者意識が生れない原因として自分や自分の行為についての客観視ができていないことが考えられるというと。発達段階からみて自己客観視の難しい小学校低学年ならまだしも、高学年にもなって自己客観視ができないとしたら、そこに考えられるのは被害者意識の存在であるという点です。
 例として高垣は、力の強い者から受けた不満を、より弱いものに当たることによってうっ憤ばらしをするような場合を上げていますが、その単純さはむしろ低学年的でしょう。うっ憤は背景にあるにしても、小学校高学年や中学生以上の加害者意識を曇らせているのは、もっと直接的な被害者意識です。
「あいつと同じ委員会だと仕事を全部やらされる」
「あまりにも愚図で足を引っ張られる」
「いちいちまとわりついてくるようでウザイ」
「何かにつけて首を突っ込んでくる」
「やたらと自慢する」
「口には出さないが見下してくる」
 そうした状況を放置すればさらに付け込まれるような気がして、仕方ない、やり返すしかないと、かくて被害者意識の強い加害者の、抵抗と復讐の斧は振り下ろされるのです。

【三分の理、それなりに傷ついている】

 それは加害者の主観の中で起こっていることで、客観的にはとてもではありませんがやり返しだの抵抗だの復讐だのといったものではありません。どうみても集団で個を、強い者が弱い者を叩いているとしか見えない場合も少なくないのです。しかしどんなにあからさまないじめ事件であっても、指導の際にはそうした加害者の被害者意識に一定の配慮を与えないと、話は一歩も進まなくなってしまいます。
 それは立場を換えて考えてみればわかることで、いじめられてまだ傷の癒えていない子に「オマエにも改めるべきことがあるだろう?」と訊く人はいませんよね。それと同じであまりにも自己中心的で身勝手なものだったとしても、主観的に傷ついて被害者意識を持っている加害者に、頭ごなしに「オマエが100%悪い」では、通るものも通らないのです。
 ではどうしたら加害の子から素直さを引き出せるのでしょう。

 高垣が提示する答えのヒントは「客観視」です。客観的に己の行為を見ることができるようになれば、そこに加害者意識は生まれてくるのかもしれないのです。

【事件の見える化=警察署取り調べ方式】

 私がそんな場合に多用したのが「警察署取り調べ方式」です。私が勝手に名づけたやり方ですが、要するに何が起こったのか、心情を交えずに叙述させるのです。そうはいっても長い文書をかける子は少ないですから、私が聞き取って作文にします。
「で、それからどうした?」
「ウン分かった。そしてそこでなんて言ったの?」
「なるほど、それで殴ったわけだ。どんなふうにやった?」
「実際にやってみてよ。いや本気で殴られても困るから、スローモーションで」
「そうしたら相手はなんて言った」
「あ、何も言わずに泣きじゃくっていたわけだ。そこで顎を蹴り上げた」
「いや、いや、いや、わけは後で聞くから、今は何があったのか、具体的にしっかり聞かせてくれ」
「待て、待て、待て。分からなくなってきたぞ。頭に浮かばない」
「そんな言い方でこんなふうにはならんだろう。他になにか言ったよな」
――と、そんな具合です。
 なによりも大切なのは具体的な映像が浮かぶように話させること、話を繋いでいくことです。
 これは「対象化」と言ってかつては「モノカ」などとルビを振ったものです。しかし今は(多少ニュアンスは違いますが)「見える化」という言葉に置き換えてもいいのかもしれません。要するに徹底的に客観的に見ようとする作業です。
 言い訳や説明を聞く必要はありません(ただし「あとで聞く」と約束して、あとで確実に聞きます)。何が起こったのか、主観を離れて客観的に見られるようになれば、あとは自然に、私たち第三者と同じ感じ方ができるようになります。そこに加害者意識が生れてくるのです。

(この稿、続く)