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「結婚式の社会学と無礼で居心地の悪い披露宴の話」~息子アキュラの結婚式で考えたこと②

 結婚式に関してこれといった一家言があるわけではない。
 冠婚葬祭も時代とともに変わっていい。
 しかし参加者があまりにもないがしろにされる式はいかがなものかと、
 かつて非難したのと同じ式・披露宴を、わが子が挙げる――。
 という話。(写真:フォトAC)

【親のメンツが守られる結婚式】

 私は臆病な保守主義者で、変化することや変則的なことを好みません。
 冠婚葬祭に対しても、中には「これ、ほんとうにやる意味があるの?」と思うようなものもあるのですが、首を傾げながらも、最低限のことは常識的にやろうと努めています。

 ひとつには私が無知で、実は意味があるのにわかっていない、という場合を恐れているからです。特に地域の行事などには、注意して扱わなくてはいけないものがあります。
 私自身はその価値観を共有しないものの、誰かが大切に考えていることについては可能な範囲で尊重したいと思います。私はキリスト者ではありませんが、キリスト教会では敬虔であるべきでしょう。そういうことです。

 長い人生、長く続く人間関係の中では、ときに嫌な思いをさせたり傷つけたりしなくてはならないときも来るはずです。そんな《絶対に引けない日》のために、小さなことの一つや二つは予め引き下がっておいてもいいじゃないか、そんなふうにも思っています。
 もっとも今日まで、妻以外の誰に関しても《絶対に引けない日》は来ませんでした。ですからこれまでのところは《たいていのわがままは聞いてくれるいい人》の地位に立たされたままです。それも仕方ありませんし悪くもありません。

 結婚式についても、内心は《あんなものどうでもいい》と思っていますから、これといった主義主張はありません。長いものに巻かれて長大な結婚式や披露宴をすることにもまったく抵抗はなかったのですが、ただ極端な地味婚は困ると思ったのは親を慮ったからです。
 私自身はデラシネのように浮いた人間ですが、両親は地域社会に根を張った人です。だからその顔に泥を塗るようなことはしたくなかったのです。
 では親のメンツを十全に守られるような結婚式・披露宴となると、どんなものが考えられたのでしょう?

【結婚式の社会学

 そもそも結婚式とは何かというと、明治・大正・昭和の初期くらいまでは「独立した家庭を営むことになった男子の立志・お披露目式」であると同時に「新たに迎え入れることになったセーフティネット構成員女子の紹介・歓迎式」でした。

 社会福祉の行き届いていなかった昔は最後まで自分を守ってくれるのが家族、その前に親戚、さらにその前に地域の人々、そして勤めに出ている人たちには勤務先の人々ということになります。交通が十分に発達していなかったために友人はほぼご近所に暮らしていましたから「友人」という特別枠はありません。結婚式・披露宴に招くべき人は「親戚」と「ご近所」そして勤め人には「勤務先」という、二つか三つの枠にある人たちだけで、そのひとたちのつくるセーフティネットに、一人前の大人一組として加えてもらうための儀式・儀礼、それが結婚式だったのです。

 やがて交通が発達して道路も整備され、若者が自転車や自動車で移動し始めると交友が地域に縛られない「友人」という新たな枠が出現します。都会の大学に進学したりすると「友人」の枠は都道府県を越え、大きな集団となって存在感を示します。それに連れて、「ご近所」が相対的な重みを失っていきます。遠くに人間関係を持つ人たちが、地域に根差さなくなったのです。

 昭和の終わりごろまで、私の住んでいた田舎にはまだ結婚式に「ご近所」を呼ぶ風習は残っていました。私は浮草でも親たちが地域人だったからです。しかし都会ではすでに呼ぶべき「ご近所」は存在しなくなっていたのかもしれません。
 平成の失われた10年・20年をすぎると、私の住んでいた田舎でも結婚式に「ご近所」を呼ぶ風習は失われました。仲人を立てることも結納を交わすこともなくなります。遠くを見るに忙しく近くを見ない私たちが、親世代になったからです。

【無礼で居心地の悪い結婚式】

 平成24年に結婚した私の長女のシーナは、比較的バランスのよい結婚式を挙げました。
 教員同士の結婚でしたから主賓は両方の校長先生。挨拶もそれぞれその人たちにお願いします。乾杯が新郎勤務校の副校長先生、同僚や先輩にも程よく参加していただき、別枠で中高大学時代の友人たちも呼びます。式の主催者は新郎の父親と新婦の父親である私ですから、家と家との結婚という体裁も整いました。非常に常識的な式です。
 
 繰り返しになりますが、私は臆病な保守主義者ですからこうした結婚式・披露宴を企画してもらうと、非常に居心地がいいのです。ちょっと調べれば何をどうしてどう振舞えばいいのかすぐに分かります。マニュアル通りに動いていれば大きく外すことはなく間違いもない。何もかも分かっていて全体が自分の手の中にある、そう考えられるのは幸せなことです。
 
 しかしおよそ10年前のシーナの結婚式よりもさらに5年あまり前、シーナの従兄、つまり私の甥っ子が挙げた結婚式はすでに違っていました。職場の人間も上司も呼ばず、宴席は新郎新婦を友人たちが囲んで大きなパーティ会場となっていて、挨拶も乾杯も行うのは友だち、親戚たちのテーブルは壁際にあって、なんとなく遠ざけられたようで居心地が悪い。
 そんな大きなパーティは、一桁大きな祝儀を持ってくる親戚の存在がなければ無理なわけで、たったそれだけでももっと尊重されるべきだ――、特に気に入っていた甥っ子だけに、私は少々腹を立てていました。
 ところがそれから十数年たって開かれた我が息子アキュラの結婚式は、私が不満に思った甥っ子の結婚式とそっくりだったのです。
 (この稿、続く)