カイト・カフェ

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「理念が現実に降りるとき」~子どもの導き方のあれこれ⑥

 すべての人に有効なアドバスというものはない。
 だから私のような生粋の自由民主主義者、子ども中心主義者のみに言っておく、
 そうした美しい理念だけでは現実が動かせないときがあるこ、
 そして高邁な理念が現実に降りるとき、悪魔の論理となる場合がある。

という話。

f:id:kite-cafe:20210216074907j:plain(写真:フォトAC)

【すべての人に有効なアドバイスはない】

 アドバイスというのは常にアドバイザーとクライアントとの相互関係の中にあります。
 学級懇談会などで日ごろ厳しすぎると感じている保護者を念頭に、
「子どもはもっと自由に育てましょう。自由こそ子どもの自発性の原動力です」
みたいなことを言うと、もう少し制御してくれないと困るなと感じている子どもの保護者が深く何度も頷いていたりすることがあります。逆に、
「小さなころからきちんと躾けましょう。それがお子さんの将来をむしろ楽なものにします」
などと言おうものなら、そもそも厳しすぎる親が深く頷いて意を強くしている様子がうかがえたりすることになります(ソレ以上、厳シクシタラ、死ヌゾ!)。

 したがって以下に書くことは、子どもと対応する立場にある人の中で、ごく一部については有効かもしれないが、正反対の人にとってはむしろ有害かもしれないので、そのことを含み置いたうえで、先に進んでくださる方は進んでください。

【私のような人間】

 ごく一部というのは、私のように「子どもの言い分はとりあえず全部聞かなくてはならない」と信じているような人間、できるだけすべてのことは話し合いによって解決すべきだと感じている人間、対立を回避したがる人、あるいは強権を憎み、人間は自由で平等でなくてはならないと思っている人間のことです。

 こうした性格はもちろん悪いものではなく、良い面もたくさんあるのですが問題はバランスです。本来もっている性格だけで子どもを指導するとそちらだけが過剰になり、指導全体が著しく不均衡になったりします。
 またそうした高邁な理念を現実の子ども社会に下ろしたとき、実際には何が起こるかは、多く経験したり学習したりしないと分からないことなのです。

【理念が現実に降りるとき】

「すべての子どもを自由にしたら誰も自由でなくなる」というのは良く知られた例です。
 授業中に“自由に”歩き回る子や暴れる子がいたら、“自由に”学べる子がいなくなってしまいます。給食の時間を自由にしたら、一部の子は自由に遊ぶ時間を失ってしまうのです。

 あるいは「子どもの言い分はとりあえず全部聞かなくてはならない」といっても、大人も子ども結構忙しいのです。話が込み入って1時間も2時間もといった状況に耐えられる大人は多くはありません。時間切れとなって「今日はここまで」と言って切り上げるのは、うまくいく場合もありますが、それまで示してきた「全部聴こう」といった姿勢を信じた子どもからすれば裏切りです。「続きは明日」と言っても、実際に“明日”、同じように時間を取れるかどうかは不明です。できもしない約束をするのは、約束をしないことよりも悪いことです。

「すべてのことは話し合いで」といっても、話し合いにできない内容もあります。
 教師について言えば、「校則を変えよう」などといった話は、不可能ではありませんが話題にするには相当な覚悟と下準備がいります。「お前たちに言い分を、職員会にかけてみたがダメだった」では済まないのが普通です。
 親で言えば、買う気も資金もない状態で、バイクを買う話などしてはいけません。
「話を聞く」というのはそれを始めた時点で「前向きに考える」「善処する」という意志表示なのです。最初からまったく聞く気のない話だったら、そもそも話させない工夫も必要になってきます。「買えるようになったらいいなあ」くらいの夢物語にしておくならかまいません。 

「公平・平等」は学校で最も重要な価値ですが、給食の時間、全員に同じように盛ったら公平かというと、そんな気はしてきません。食べたい量、食べられる量には差があるからです。しかし、だからといって嫌いなものを言うがままに減らしていったら、「食品ロス」の問題は野放しになってしまいます。もちろん「そんなことは家庭や社会でしっかり教育してくれるから、学校がやることはない」と言って下されば、全員“、公平”に「好きなものだけを食べればいい」ということにできるのですが――。

 厳密に言えば宿題も、同じ量を出したら15分で片付く子と45分もかかる子の差ができてしまいます。著しく不公平とも言えますが、能力に合わせて量に差をつければ、今度は学力の公平さを保つことはできないという見方もあるでしょう。
 理念的な教師・理念的な親というのは最初から壁にぶつかるものなのです。

(この稿、続く)