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「目標は下げても、生徒には授業に参加してもらう」~ジェンダーフリーを学校で実現させると③

 新しい概念が入り込むと、
 古い体質の学校はぎくしゃく軋み始める。
 しかしジェンダーレスやジェンダーフリーという概念、
 未消化のまま、うまく利用されてはいまいか。
という話。(写真:フォトAC)

【制服のジェンダーレスはどこまで本物か】

 ジェンダー平等の立場から中学校でも制服を自由に選べるようにしようという動きがあり、私の家の近くの学校でもズボンで登下校する女子が多くみられるようになりました。
 30年以上まえ、冬場は今よりもずっと寒かった時代に、せめて3学期の酷寒の時期だけはズボンをはかせようと学校と保護者がいっしょになってかなり強力にがんばったのに絶対に履いてくれなかったことを考えると、隔世の感があります。
 ちょうど80年代の“学校の荒れ”が収まりつつあるころで、それを機に制服の見直しも多く行われ、寒冷地では女子用スラックスも標準服の中に含めらました。しかし世間はちょうどギャルズファッションの全盛期。真冬でもミニスカ・ルーズソックスでなくてはいけない時代にスラックスはいかにも通りにくいものでした。
 長いあいだ女子用標準スラックスなど売れることもなく、業者もいつの間にかつくるのをやめてしまった昨今、いきなり「ジェンダーレスの時代に学校は女子のスラックスを認めない」などと言われるようになって大いに慌てさせられたのはそのためです(私は怒っていました。あんなに熱心に勧めていたのに――)。
 
 考えてみれば女子の大部分は小学校の6年間をズボンで登下校してきたわけで、中学校に入っていきなりスカートで来なさいと言われても、実際にはうまく歩くことすらできない子もいたりします。
 遅刻しそうな1年生が、成長を見越して丈を長くとったスカートをバサバサ捌きながら走る姿は、まるで高田馬場に向かう中山安兵衛こと後の堀部安兵衛みたいなものです。それはそれで可愛いのですが、ズボンだったらもっとうまく走れるのにね、と心の中で微笑んで見送ったりします。
 ここ2週間ほどは私の住む地域もかなりの暑さになっていますが、それでも多くの女生徒がズボンのままというのは、やはり動きやすさが魅力的なのしょう。とても良い傾向かと思います。
 ただし、これをジェンダー平等あるいはジェンダーレスの問題として取り上げることには抵抗があります。少なくとも私は近隣に、制服スカートで登下校する男子を見たことがありませんし、いるにしてもズボンをはいた女子生徒に匹敵するほどの数ではないと思うからです。
 繰り返しますが、防寒および健康面や動きやすさの点から女子がズボンを履くことは好ましいことです。しかしこれがジェンダーレスの成果かというとそうではないと思うのです。

ジェンダーレス水着という謎】

 「ジェンダーレス水着」と呼ばれる水着にも、私は同様の疑問を持ちます。何がジェンダーレスなのか、あるいはジェンダーフリーなのか、よく分からないのです。

 それとは逆に、私は最近、水着とジェンダーレスについてよく分かる、象徴的なできごとを聞きました。それはドイツ・ベルリンの公営プールで、今年から女性のトップレスが認められるようになったというニュースです。
 昨年暮れに胸を隠さず泳いだ女子選手が職員にとがめられ、それを不服として、
「女性のみが胸を隠すことを強制されるのは差別である」
と申し立てたところ、当局が認めたというのです。
 平等を実現するには男性も胸を隠すという方法もありますが、とうてい徹底できるものではありません。だったら差別を感じる者、胸を締め付けられることがイヤな者、こよなく自由を愛する者たちが、率先して自主的に外せばいいだけのことです――私はもう高齢な保守主義者ですから賛成はしませんが、筋は通っています。
 それに対して、日本のいわゆる「ジェンダーレス水着」は、誰を受益者と想定しているのでしょう?

 いちおう想定できるのは胸を隠したい男子です。しかしそれだけだとこの水着を着ること自体が、性自認をカミングアウトすることになりますから簡単に済む話ではありません。あるいは中学校時代の私がそうであったように、あまりにも上半身が貧弱で外に出したくないという場合もあるかもしれません。しかしカミングアウトと混同されることを嫌えば、このタイプもジェンダーレス水着を選ぶことはないでしょう。他には――できるだけ日に焼けたくない男女、貧弱とは別の意味で体形を見られたくない男女も、この水着を選ぶ可能性はあります。というか、実際には後二者が大半になるはずです。
 しかしそれでこの水着をジェンダーレス呼んでいいのでしょうか? ジェンダーという概念には、社会上、もっと大切に扱わなくてはいけないものがあるという思いが、私にはあります。

【あの水着で中学校の水泳はできない】

 ジェンダーレス水着と呼ばれる男女共用のセパレーツ水着は、とてもではありませんが競争に向くようなものではありません。水遊びもしくは海水浴用の遊び着に類するものです。中学校ではおそらく1年生には受け入れやすそうですが、それは小学校で同じようなものを着ていたからです。
 学習指導要領小学校5・6年生に書かれたの水泳の内容は次のようなものです。
 水泳運動について,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
(1) 次の運動の楽しさや喜びを味わい,その行い方を理解するとともに,その技能を身に付けること。
 ア クロールでは,手や足の動きに呼吸を合わせて続けて長く泳ぐこと。
 イ 平泳ぎでは,手や足の動きに呼吸を合わせて続けて長く泳ぐこと。
 ウ 安全確保につながる運動では,背浮きや浮き沈みをしながら続けて長く浮くこと。
 だからダブダブのセパレーツ水着で、半分遊びであってもかまいません。しかし中学校1・2年生の体育は違います。
 水泳について,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
(1)次の運動について,記録の向上や競争の楽しさや喜びを味わい,水泳の特性や成り立ち,技術の名称や行い方,その運動に関連して高まる体力などを理解するとともに,泳法を身に付けること。
 ア クロールでは,手と足の動き,呼吸のバランスをとり速く泳ぐこと。
 イ 平泳ぎでは,手と足の動き,呼吸のバランスをとり長く泳ぐこと。
 ウ 背泳ぎでは,手と足の動き,呼吸のバランスをとり泳ぐこと。
 エ バタフライでは,手と足の動き,呼吸のバランスをとり泳ぐこと。
 もはや「水泳運動」ではなく「水泳」となり、楽しさや喜びを味わうのではなく、記録の向上や競争の楽しさや喜びを味わうのです。そのために着用すべきは「遊び着」ではなく「水着」です。
 私の孫のハーヴだって、プライベートでは上着付きの遊び着ですが、スイミングスクールでは競泳用パンツで泳いでいます。

【目標は下げても、生徒には授業に参加してもらう】

 もっとも、私は導入反対ですが、現職の体育教師の中には喜んで受け入れる先生のいることも容易に想像ができます。
 教師の仕事は上から引っ張って引き上げることではなく、下から支えて援けることです。したがって児童生徒が“活動”してくれないことには何も始まりません。評価もできなくなります。そこで何としても授業には参加してもらいたい、どんなに目標を下げても何もしてくれないよりはマシということになります。あの奇妙な水着を許可するだけでプールに入ってくれるなら御の字。中学校の体育の目標などクソ食らえ!です。
 生徒にプールに入っていただくためなら、遊んで終わりだっていいじゃないか、だったら遊び着でも一向にかまわない――と、そんな教師も多くなってくるのかもしれません。
 
 それにしても日本スクール水着ジェンダーレスを追求していったら結局イスラム教国の女子選手と同じような、肌をほとんど見せないものへと行きついてしまうとは! トップレスに行きついてしまったベルリンも極端ですが、性差を見えなくしてしまうこの水着は、不思議であるとともに暗示的でもあります。
(この稿、終了)