ほんのわずかでも、子どもがつらい思いをすることには、
まったく我慢できない人たちがいる。
本来は子ども自らが克服すべき課題であっても、
教師が耐えて克服すべきだと、彼らは信じているみたいだ。
という話。(写真:フォトAC)
【水着になるのが恥ずかしい――】
昨日書いた、《学校や教師をあれこれ煩わせておきながら、3年後はビキニというのは許さんぞ》には、ちょっとした思い出があります。
それは1990年ごろ、入管法の改正に伴って日系ブラジル人の国内就労が緩和された際、当時私の勤めていた中学校に入ってきた一人の日系ブラジル人三世の女の子に関するものです。
いまから思えば政府は「デカセギ日系ブラジル人」が連れてくる学齢期の子どもについて何も配慮していなかったようで、日本国籍がないため日本の学校への就学義務もない、しかし就労もできなければ家に閉じ込めておくわけにもいかない子どもたちを、どうするのかは親と地方自治体に丸投げされていたようです。
私の勤務していた中学校とその自治体も道義上やむなく受け入れたものの、その子ひとりのために特別な教員を配置することもできず、さりとて日本語のまったくできない子を一日中通常学級に置いても何の支援もできないので、生活の基盤を普通学級に置きながら、いくつかの教科学習は比較的余裕のある特別支援学級で受けてもらうことにしたのです。
その方法は、支援学級の担任が優秀だったこともあって比較的うまくいきました。そして少しずつ普通学級で受ける授業も多くなったのですが、やがて一番やり易いと思っていた体育で躓くことになります。水泳の授業が受けられないと言い出したのです。
「水着になるのが恥ずかしい――」
【過剰に尊重される子どもの意思】
令和の現在だったら考えるフリくらいはしなくてはならないかもしれませんが、平成も始まったばかりの当時としては、そんな理由で見学など許されるはずがありません。特にこの子の場合、体育が受けられないとなると他の生徒の手前、週3時間の授業をすべて見学にするわけにもいきませんから支援学級の担任預かりとなります。しかしそれでは本来の入級生徒の指導が片手間となってしまうので、なんとか水泳の授業に参加してもらえないかとお願いしたのですが頑として聞き入れないのです。
結局、支援学級の担任が「やりましょう」と女気を見せてくれてひと夏、体育の時間も預かって日本語指導をすることになったのです。校長も教頭も、そのほかの誰も反対しません。そこには就学義務がないという甘さもありましたし、見かけは日本人でも文化の違う国から来たのだからそのくらいは容赦してあげましょう、といった温情もありました。
しかし教師が自らの負担で引き受ければそれでいいのか――と、私の心の中には強い違和感が残りました。自分が受け持つクラスのことでなければ自分の負担になることでもないのでそのまま口を挟むこともしませんでしたが、何かが違うような気がしたのです。
せっかくそこまでさまざまなものを用意したというのに、その年の秋、その子は突然ブラジルへ帰ってしまいました。外国籍の子どもは来るときも突然、帰るときも突然というのは今も昔も変わりありません。
年が改まって年度も変わった4月、その子から挨拶の手紙が届きます。外国人と言ってもさすが日系、律義なものです――と思ったら同封されていた写真にはとんでもないものが写っていたのです。
ポルトガル語で“カーニバル“と手書きの文字の入った写真(そのくらいは読めます)には、おそろしく華やかであられもない水着姿をしたその子が、いけしゃあしゃあと満面の笑みでこちらに向かってポーズをつくっていたのです。
「水着になるのが恥ずかしい」
は、スクール水着がダサすぎて恥ずかしいということだったのかもしれません。しかしそれにしても、ちょっと我慢してくれれば担任も支援学級の子も大いに助かったのをと、心の中で密かに恨んだものです。
【それは克服すべき課題ではないのか】
しかし「水着姿を見られるのは恥ずかしい」というのは、そもそもが克服課題なのではないでしょうか? 大人になれば、親になれば、水着にならなくてはならない場面はいくらでも出てきます。もちろん避けて通ることもできますが、可能性の間口を狭めることにはなります。
人前で歌うことは恥ずかしい、下手な絵を掲示されるのは恥ずかしい、拙いな朗読を聞かれるのは恥ずかしいも、みな同じです。
水泳の授業は体育として行うもので、スポーツの世界で体が露出することはある程度あたりまえです。見る側も見られる側も慣れて行かなくてはなりません。水泳のアーティスティックスイミングだって飛び込みだってみんな水着で行うし、いまは陸上競技にだってセパレートのユニフォームで戦う時代です。その場その場でもっともふさわしい装いを選ぶのは、生きていくうえで手に入れるべき最初の知恵で、そこでいちいちうろたえてはいけないのです。
もちろんうろたえて興奮して、カメラで妙な角度から撮影したり、不自然なアップや普通ではない瞬間を好んで撮影したりするよう輩は指導しなくてはなりません。しかしそれは別問題ですし、最初から問題が発生しにくいようにしていたのでは発見できません。
性的な問題とは違った意味で体の線を外に出したくない人は、一年にいっぺんの機会と考えて筋トレに励みましょう。私なんぞは高校生時代、そもそもが虚弱体質でしたから腹筋を割ることばかり考えて暮らしていました。それでいいのです。
今さら男女別学別修だのと明治の昔に戻してどうするのだ、と私は思うのです。
(この稿、続く)