「もう何でもいいからやってくれ!」~「9月入学」の利点と問題点④

 部活は3年生を排除、文化祭は縮小、夏休みの教育活動もなくなって、
 「9月入学」はまったく異なる日本の学校教育を生み出すだろう。
 政財官はこれにもろ手を挙げて賛成し、国民も多くが賛成派だ。
 もう私に言うべきことはない。勝手にやってくれ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200514070635j:plain(「ススキと海 1」フォトACより)

 

【文化祭は規模を縮小して行う】

 文化祭は文化系部活動にとって最大の行事であり、中学校においては学習発表の場でもあります。したがって新年度が始まってからある程度の準備期間が必要であるとともに、3年生には受験が迫っていますから背後も切られています。
 私の住む地域では高校は7月、中学校の場合は10月が一般的ですので、それに即して5カ月後ろに送ってみると、高校は12月、中学は3月の文化祭ということになります。

 高校の場合は日の一番短い時期で、昨日お話しした運動部と同じになってしまいます。しかし9月入学だと、9月一カ月くらいは新入生が部活を決めているだけで終わってしまいますし、大学入学共通テスト(昨年度までのセンター試験)が6月におこなわれることを考えると、先送りしても1月中には終えなくてはなりません。どうせなら学期をまたがずに文化部3年生の部活動は1学期(9月~12月)まで、2学期以降は受験準備というのが分かりやすいでしょう――ということで、高校の文化祭は12月の一択です。

 もっとも運動部と違ってそれまでの作品の蓄積や家に持ち帰ってやれる仕事もありますから、それほど苦しくはないでしょう。演劇部や合唱部も直前に十分な練習ができないことを見越して早めに活動をしておけばいいのです。

 ただし制約を受けるものもあります。
 模擬店はすべて屋内になりますし、屋外ステージというのも考えられませんから体育館のステージは奪い合い、近隣の施設を使った分散開催というのも考えなくてはなりません。
 今でも地方に行くと文化祭の最終行事が昔懐かしいファイヤー・ストームとなっている学校もありますが、12月のストームは大掛かりな焚火みたいなもので雰囲気的には左義長です。間違っても例年のように水を掛け合ったりしてはいけません。深夜、残り火を囲んで青春を語り合うということもなくなるでしょう。
 
 5カ月遅らせれば3月が文化祭の中学校も大同小異、ただし学習発表の部分はだいぶ様変わりします。
 国語の書道展示は「書初め展」と重ならないようにしなくてはなりません。現在は夏休みの宿題となっている理科の自由研究も、大部分を短い冬休みの間に終えておかなくてはなりませんから、内容はずっと小さなものになってしまいます。1月~2月に写生会というわけにもいきません。美術の作品もなにか別のものに差し替えましょう。あとは何とかなります。
 現在の卒業程度の寒さを想定すれば、時期的なイメージがわくはずです。
 
 

【案外、やっていけそうじゃないか】

 さて、三日に渡って「9月入学」を実際の年間暦に移して検討してきましたが、最終的な私の感想は、
「案外、やっていけそうなものだな」
というものです。予想していたよりも問題ははるかに少ない――。

 私も単に“桜の下での入学”“厳しい冬を耐えての卒業”といった情緒的なものに縛られていたのかも知れません。6月の梅雨時の卒業式では女子の卒業生は着物が着られないじゃないか、などということはまったく本質的なことではない。

 前向きに考えれば、3年生の参加できなくなった運動部からは有能なアスリートが手を引いて別の場所に活路を見出すようになるでしょう。そうしないと継続的な成長が望めないからです。同じ理由で各種競技団体の有意の人たちが後押しをしてくれます。
 有能な選手の抜けた中高の部活動は、遅かれ早かれ大学の同好会のようなものに変わっていき、「教員の働き方改革」「生徒の健康問題」といった点でも大きな進展がみられるはずです。
 子どもに本気でスポーツをやらせたいと思う保護者にとっては大変な負担増ですが、そのぶん学校は楽になるでしょう。

 夏休みは年度替わりの空白になりますから継続的な学習の枠から外れ、理科の自由研究や夏休み帳のようなものもなくなります。残るにしても新年度の新しい担任が引き継ぐものですからハンコを押して終わり、その程度のことになります。現在と同じ水準で行ったら、2か月分の宿題処理ですからとても持ちません。

 欧米の子どもたちが享受しているようなまったく自由な2カ月間に近いものが生れ、子どもたちに歓呼の声で迎えられます。そして、二か月間も子どもが家にいることに困り果てた親たちが、長期の夏休みを求めて大きく社会を動かします。学校5日制が企業の週休二日制を強力に推し進めたように、社会全体が長期の夏休みを受け入れざるを得なくなります。
 つまりこの部分でも、世の中の一部の人々が大好きな「グローバル・スタンダード」に近づくわけです。

「これほど大きな変化を伴う『9月入学』を、コロナ事態の混乱の中で拙速に決めていいものか」
という意見もあります。
 しかしじっくり考えたら反対者が続出するに決まっています。知事の6割が賛成し、総理大臣も「検討しましょう」と言い、ある調査では反対者が18.4%しかいない(賛成は47.8%)いまこそ、さっさとやってしまえばいいのです。
 
 

【もう、どうなってもいい】

 今回「9月入学」に関して、メリットのひとつは「留学がしやすくなる」ことだと説明されていますが、日本の人材が海外へ行って何かを持ち帰ることを期待しての話ではありません。優秀な子は行ったら帰ってきません。あちらの方が断然、収入が良いのですからです。

 目的はノーベル賞級の学者を招聘し、インド・中国などの即戦力を留学生として招いて国力を高めようというのです。そのことを意識していないと個人のレベルではとんでもない勘違いとなります。

 我が子が優秀でアメリカに留学して大活躍できるような人材であれば行ったきりです。そこまで行かない普通の子だったら、今度は外国人留学生に枠を狭められた日本の大学入試で、しなくてもいい苦労をさせられるだけです。
 しかも外国人講師による英語の授業がかなり増えますから、大学進学にかなりの英語力が必要になります。その意味で、さらに日本人には敷居が高くなることでしょう。

 それを百も承知で、このコロナ騒動のどさくさに紛れて「9月入学」を持ち出す知事たち、政財界の人々、マスコミ関係者に、私は本気で腹を立てています。

 しかし私はすでに教員でもなく子育ても終わっています。孫たちの教育についいては息子や娘と十分に相談した上で進めましょう。私たちは夫婦も娘夫婦も教員ですから、いまの“よき学校教育”の代わりはいくらでも果たせます。
 根がケチですから孫たちの教育資金も十分あります。ですから私は、もう学校教育がどうなろうと知ったことではないのです。
 
 

【それでも気になること】

 それでも心配なことがひとつあります。まったく些末なことなのかもしれませんが、学校の教育課程から水泳がなくなってしまうと子どもが死ぬかもしれないということです。

 民族学者の石川純一郎の「河童の世界」に、
「若狭の長源寺浦から朝ヶ瀬にかけて、水泳ぎや洗い物などに出て水死するものが、以前は四、五年がうちにひとりずつはあったという。水中に引き込まれるためである」
とあるように、昔は子どもも大人も、およそ信じられないような安全な場所で、よく水死したのです。それが河童伝説へとつながっていくのですが、要するに泳げる人が少なかったのでしょう、つまらぬところで水にはまって、パニックになっておぼれるのです。

 今でもオカルトめいた逸話とともに語り継がれている三重の橋北中学校水難事件(1955)では、660名の生徒を17組に編成したうち「水泳能力のない組」が12組もいました。特に女子は10組中9組までが「泳げない組」でした(人数は不明)。
 私自身は小学校2年生になるときに学校にプールができて、おかげで水泳を習うことができましたが、少し上の世代には水泳の経験がなく、若狭でなくても「水死するものが、以前は四、五年がうちにひとりずつはあった」のは当たり前だったのです。

 「9月入学」のために学校が水泳を教えなくなれば、10年後には「泳げない子どもたち」が大半になります。それはやはり気になるところです。

(次回、最終)