カイト・カフェ

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「村八分とシクラメンのかほり」~葬式なんてなくても大丈夫①

 私の父方と母方で、一人ずつの叔母が相次いで死んだ。
 葬儀が二日続きになったが、メイやオイの参列があまりに少ない。
 つい最近まで、葬儀は最優先事項だったはずだが、
 もはや人は死を畏れないということなのか――。
 という話。(写真:フォトAC)

親戚に、立て続けに葬儀があった】

 今年、まだ誕生日が来ないので98歳のままの父親方の伯母と、すでに誕生日を迎えたので98歳になった母親方の伯母が相次いで亡くなり、続けてふたつの通夜・葬儀に出ることになりました。父方の伯母の通夜から数えると3日連続の葬礼となり、今日がその三日目です。通夜・葬儀・火葬を1セットとすると、昨日までに1セットと三分の一を終えたわけですが、現段階ですでにヘトヘト。こんな体力・知力で自分の母のときに、ほんとうに喪主が務まるかと不安になりました。
 さらに今回の二つの葬儀に関して、かなり苛立たしい話があって、それで神経を擦り減らし疲れているという面も少なくないのです。なにかと言うと、伯母の死に対して、甥や姪に当たる人々、つまり私のイトコたち参加があまりにも少なく、態度もあまりのもそっけないからです。

【死者に対する文化が共有されない】

 親族に関する葬儀で最近のものは4年前の伯母の葬儀です。さらにひとつ前はその連れ合いの叔父ですから、この家では2年続きで葬儀を出したことになります。
 2回とも故人の兄弟姉妹(私の母たち)で生きている者・動ける者は全員、そしてほんとうに難しい事情のあった従弟ひとりを除いて、他は全員が葬儀に参加しました(本葬に来られなかった従姉も通夜には来ました)。その数は3家族で8名でした。
 直接の遺族であるイトコ兄妹3人もそれぞれ配偶者・子女・孫を連れてきますから、それだけも賑やかな大きな式になりました。

 ところが今回、その3兄妹のうちふたりが早々に不参加を明らかにします。長男ひとりが、それも本葬のみで通夜にも火葬にも来ないというのです。オジ・オバの葬儀にはオイ・メイに当たる者は全員、万難を排して出席すべきだと信じ込んでいた私は、それだけでカチンときます。つい4年前・5年前、イトコや叔母たちからともに両親の遺徳を忍び、一緒に別れを惜しんでもらったばかりではないですか。

 私はもちろん、私の弟もやはり文化的に最接近なのでしょう、連絡すると二つ返事ですべての葬礼に出席すると返してきます。3月いっぱいで第2の職も辞めるのでなかなか休んでいるわけにはいかず、それなのに娘の引っ越しなどで休まざるを得ないという急がしさでも、葬儀を優先に考えます。母は高齢で動けませんから、私と弟、どちらも欠くことができないのです。

 ところが残りの一家族も連絡すると、遠方ということもあって高齢の叔母が来られないのも理解できますが、イトコ姉弟のうち、弟のみの参加で従姉は来られないというのです。

「葬儀の参加は家族代表ひとり」という考え方を、一家族だけなく二家族から突き付けられ、私は考え込んでしまいました。

村八分シクラメンのかほり

 「村八分」というのは掟(おきて)を破った家族に対して、村全体が火事と葬式のふたつを除いてすべての点で仲間外れにする制裁です。
 火事が除外されるのは当たり前で、消火活動に協力しなければいつ火の粉がこちらに降りかかって延焼するかわかりません。そこで一緒に消火するのですが、葬式も同じ考えで、祭りをおろそかにすればいつ祟りの火の粉がこちらに降りかかるか分かりません。死者は丁寧に扱ってこそ、静かに成仏してくれるのです。

 こうした死者に対する畏れは根源的なもので、少なくとも日本国内ではほとんどの人と共有できるはずだ――と私は思っていました。いまはどんな理由であっても年休を許可しない上司はパワハラですが、かつては、
「メイの結婚式だから休みをくれって!? オマエにそんな暇なのか?」
くらいは平気で言ったものです。しかしそんな高圧的上司でも、
「なに~? イトコの葬式だから休みをくれって!? オマエにそんな暇なのか?」
とは絶対言いませんでした。言うとしたら余りにも世間知らずです。
 民族としての日本人は、葬儀をおろそかにできなかったのです。

 しかしそうした民族性を共有できない人たちが、私たちと同世代、あるいはそれ以上の層から出てきているのです。老境も深まると子ども返りすると言われますが「畏れを知らない子どものように・・・」*1なってしまったのでしょうか?

 いや、そうした畏れはなくとも、ともに泣いてもらった以上ともに泣きに行くのは当たり前ですし、故人に対して悔やむ家族があるなら一緒に行って悔やみを共有し、「お悔やみ申し上げます」と言わなくてはならない、それも当たり前のことだと私は思うのです。
 
(この稿、続く)

*1:シクラメンのかほり」の本当の歌詞は「疲れを知らない子どものように~」でした。