カイト・カフェ

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「家族葬と年賀状じまいの厄介」~縁切りの作法について 

 新年早々、妻の親戚に葬儀があった。
 しかしすぐに駆け付けられない心の壁があった。
 知らないうちに静かに縁を切ってしまっていたからだ。
 私には、年賀状を介して縁を切りたいとの申し出があった。
 ともに心に引っ掛かるできごとだった。
という話。f:id:kite-cafe:20200110074817j:plain(「葬儀 お葬式」PhotoACより)

【戸惑いの葬儀】

 年明け早々、妻の従姉の訃報が入りました。入ったと言っても直接連絡があったのではなく、新聞のお悔やみ欄で私が気づいたのです。

 大人になってからは付き合いの薄い人でしたが、小さなころはずいぶん遊んでもらったようで、妻はさっそく別の従姉に電話をして様子を聞きました。心筋梗塞による急逝で家族にまるで覚悟がなかった、だから大慌てで、連絡も手分けをしないと間に合わないほどだった、そんな話だったようです。しかしその手分けの連絡が、妻の実家には来なかった。

 実は妻の実家への連絡係は、そのとき電話で話していた当の従姉でした。ところがその人は、ちょっと厄介な事情があって電話をかけ損ねたのです。
 ひとつは妻の実家はすでに代替わりしていて叔父叔母(つまにとっては実父実母)にあたる人はなく、家を守っていた次女も一昨年亡くなったので血の繋がらない次女の夫がひとり残っているだけだった――つまり心理的な壁があったこと。

 もうひとつはここ2回、妻の実家で出した葬儀を家族葬でやってしまったため、今回亡くなった人も電話で話している従姉も、ともにその葬儀に参列していなかったこと。
 自分が葬儀に行かなかった家をこちらの葬儀に招くということに抵抗があって連絡を怠ったらしいのです。私が新聞を広げて気づかなければ、妻の家では誰一人、今回の葬儀に気づかずに終わってしまうところでした。

家族葬を選択したわけ】

 3年前、妻の母親(私の義母)が94歳で亡くなったとき、一緒に暮らしていた義姉は葬儀を家族葬で行うことにしました。

 家族葬の定義は少し厄介なのですが、確実な線で言えば「参列者を任意に選ぶ葬儀」ということになります。
 そのため葬儀の事前広告をしません。新聞等への掲載は事後行います。

 もうひとつ大切なことは隣近所への配慮で、これは隣組の組長さんや班長さんを通じて、「家族葬で行いますので通夜および葬儀への参列はけっこうです(またはご遠慮ください)」と回してもらいます。最近ではそれすらも行わず、極秘のうちに遺体を運び出すといった例もあり、私の実家のお向かいさんはそのようにしました。
 そのうえで、親せきや友人への連絡はどの範囲にするかを考えます。最小だと親子のみ、そこから兄弟姉妹、友人関係はどこまで事前連絡をするのか、家族で相談します。

 義母の場合は94歳という高齢でもあり、普通に広告しても親族以外に来るのは2~3人かもしれない――実際にそうした葬儀を見てきた義姉は、“そんな惨めな葬儀はさせられない”と怖れて家族葬にしたのです。
 範囲は義母の子どもたちとその家族、義母およびすでに鬼籍にある義父の兄弟姉妹(義姉や私の妻にとっては叔父叔母)までとしました。叔父も叔母も物故者の場合は従兄弟姉妹が参列しました。高齢でしたから従兄弟姉妹の方が多かったくらいです。

 葬儀の席上、叔父のひとりがこんな発言をします。
「もうこういうことはお互いさまで切りがないから、皆で集まるのはこれを最後にして、あとは家族だけでひっそり弔うようにしよう」
 
 それからわずか1年半ののち喪主だった義姉が亡くなるのですが、配偶者である義兄は、あの時の叔父の提案を忠実に守ろうとするのです。義母の葬儀から叔父叔母・従兄弟姉妹がごそっと抜けるわけですから、ずいぶん小さな葬儀になりました。
 おかげで招かれなかった叔母の一人からは、のちに激しく叱責されます。
「あれは私たちの代について言ったんで、あなたたちは違うでしょ! なんで知らせなかったの!」


【やってみないと分からないこと】

 家族葬はもはや主流になりそうな勢いのブームですから、あまり深く考えずにやってしまった面もありました。しかし実際にやってみると想像したよりもはるかに大変で、その顛末については以前書きました。

kite-cafe.hatenablog.com他。

 ただしその記事を書いた時点でも分かっていなかったことがあって、それは、
家族葬でいたします(だから参列しなくてもけっこうです)」は、「したがってお宅の葬儀にも呼ばないでください」と言っているのも同じだということです。そのつもりはなくても、相互的なものですから、呼ばないということは“呼ぶな”ということと厳しく近似なのです。

 年明けの従姉の葬儀に際し、妻の実家への連絡を怠ったもう一人の従姉のためらいも、葬儀に参列しようかどうか迷う妻のためらいも、元を質せば同じところから始まっているのです。
 

【人間関係のフェード・アウト】

 昨日は年賀状の話をしましたが、今年もらった年賀状の中に、ふっと首をかしげるものがありました。ここ数年やりとりの途絶えていた元同僚から、突然、舞い込んできた一枚があったです。もちろんこうした事故は少なからずあって、たいていは先方の記録ミスですがそれにしても3年ぶりは珍しい・・・そう思いながら読んでいくと、そこにはこんなことが書いてありました。

「定年退職を経て、次の仕事も今年3月で退職しようと考えております。ついてはこれを機に、本年をもちまして年始のご挨拶を失礼させていただくことにいたしました。非礼を深くお詫びいたします」

 私はイラっとします。
 これが喜寿(77歳)だの米寿(88歳)だのだったら理解できます。ペンを握るのもままならないということもあるでしょう。しかしその人は60代も半ばに達していないのです。
 あるいは日常的に交際があって今後も続きそうで、年賀状だけやめにしようというならそれもわかります。いまさら儀礼もないだろうということですから。
 しかし3年も付き合いがなく、もう終わったと思っていたところに「年始の挨拶を失礼・・・」は、非礼にもほどがあると思うのです。これではまるで、何の気持ちもない女性から、
「もうあなたのことは愛していません、私にかまわないでください、さようなら」
と言われているようなものです。

 もちろんそんな気持ちで書いたものでないことは十分わかっています。軽い気持ちでやっていることなのでしょう。しかしまだピンピンと元気なうちの“年賀状じまい”が、相手に、
「もうあなたには何の興味もありません。付き合いたいとも、様子を知りたいとも思いません。もちろん私も知らせません。悪しからず。さようなら」
と言っているのと同じに聞こえる――そういうことに対する配慮がまったくないのです。
 なぜフェード・アウトの人間関係ではいけないのか。

 年賀状をもらっても2~3年のあいだ返事を書かないとか遅らせるとかすれば、いくら何でも相手もわかるはずです。それでも送って寄こす人は、返事はもらえなくても話し続けたい人ですからそのままもらっていればいい。慕ってくる人ですから返事を書かない心苦しさくらい我慢しましょう。
 それをおしてまでも絶縁状を突きつける必要があるのか――。

保守主義者は語る】

 私は合理ということは嫌いではありません。冠婚葬祭を含む数々の儀礼に関しては、簡略化していくことも大事かなと思います。

 しかし一方で私は臆病な保守主義者でもあります。世の中に対しては、先陣を切って改革に進むのではなく右顧左眄しながらゆっくりとあとをついていけばいいと思っています。長く続いてきたものには、何らかの隠れた意味や仕掛けがある場合も少なくないからです。

 家族葬も年賀状じまいもまだずっと先でいい――私はそんなふうに思っています。