「高齢者のあることのやっかい」~伯母が100歳の誕生日を迎えて

先日、伯母が100歳の誕生日を迎えた。私の母も95歳。
人はなかなか死なないものだ。
しかし一般的な人の死から逆算すると、私の余命はあんがいと短い。
高齢者の余命問題、どう考えたらいいのだろう。
という話。(写真:フォトAC)

【キンは100シャイ、ギンも100シャイ、伯母も100歳】

 先週の金曜日(11月11日)は伯母の誕生日でした。
 だから何だというような話かもしれませんが、書いた私自身が高齢者であることを加味してもらうと、この文に多少の重みあるいは変化が出てくるかも知れません。
 100歳だそうです。
 今年初めて知ったのですが大正11年11月11日のゾロ目誕生日で、中国では独身者の日ですが、伯母は早くに結婚をして男ばかり3人の子を産み、女ばかり6人の孫に恵まれました(ひ孫は知らない)。何にしもおめでたい話です。
 
 妹である私の母も95歳。いつ逝ってもおかしくない歳なので、伯母の家にはなかなか電話ができません。口さがない従兄が電話に出るなり、
 「叔母ちゃん、死んだ?」
とか訊きそうで、いや“まだ生きています”と言うのも変ですし、相手にバツの悪い思いをさせるのも申し訳ないので連絡できないのです。
 “生きている”母が直接電話をすればよいようなものですが、一度やったら先方でもすっかり過去の人になり切っているらしく、おそらく電話口に出たのが孫かひ孫で、サッパリ要領をえないまま切らざるをえなかったようです。以来10年近く、話をすることもありませんでした。
 今回は特別な誕生日ですのであれこれ考えた結果、まずスマホのショート・メッセージで予告をして、時間指定で電話口に待ってもらってそれからかけるという面倒な手続きをとりました。
 メールで連絡してそれから電話をかける、いまも有効なやり方です。

 そばにいなかったので分かりませんが、叔母はとても元気で、認知症の様子もなく、何でもハキハキと受けごたえができたようです。100歳と95歳、恐るべしです。

【人間は意外と死なない】

 知っている人がみんな高齢者になってしまったこともあって、毎日の新聞の死亡広告は必ず読むようにしています。特にコロナ禍になってからは人間関係が極端に細っているので、恩ある人の訃報も届かない心配があります。
 まずざっと名前に目を通し、それから喪主の名前を確認し、その間に享年にも注意します。享年を意識するのは自分の対比のためです。すると次第に分かってくるのは、「人間はなかなか死なない」という事実です。
 男性は80代になるまで、女性は85歳を過ぎないと普通は死なない。それ以前に亡くなるのはおそらく病気か事故か、そんな例外でもない限り、簡単にはあの世に行かないみたいなのです。現代人の晩年というのはかなり長いようです。

【自分の余命の、何と計算しにくいことか】

 ただ、そこから自分の実年齢を引くと、私も80歳代まで10年そこそこ。多少ビビります。日ごろは、
「人生で今がいちばん幸せ。このさき長く生きても何が起こるか分からないから、いま死ねればそれが本望」
とか言っておきながら、そして意識の上では完全にそう思い込んでいるにもかかわらず、他方で毎日の体操と一日おきのウォーキングを欠かさず、血圧測定も忘れない――。いちおう「ピンピンコロリのためにはピンピン、つまり健康であることこそ大切」という言い訳はあるにしても、人様にはなかなか分かってもらえない臆病な状況にあるのです。

 伯母のように100歳まで生きるとすると30年以上、これは長い。しかしあと10年しか生きないと考えると、こちらは微妙。
 いずれにしろ若いころは余命を計算することなどありませんでしたから、高齢者であることはなかなかに厄介なことです。