「強制有理・純真無罪」~「ちむどんどん」にみるものの見方考え方②  

このドラマの登場人物たちは、なぜああも無神経なのだろう、
それがNHK朝の連続ドラマ「ちむどんどん」の感想のひとつだ。
人々は自分たちの考える「本人のため」を平然と押し付ける。
ドラマだから結果はよくなるが、現実はそうはいかないだろう。
という話。(写真:フォトAC)

【天然人(びと)の恐ろしき所業】

 NHK朝の連続ドラマ「ちむどんどん」は連ドラ史上最もSNSで叩かれたドラマだと思いますが、中でも視聴者の不興を買ったひとつは、主人公暢子の結婚式の場面でした。

 夫となる和彦は式場まで決まっていた婚約者を振り切って、また妻となる暢子は幼馴染の智の真剣なプロポーズ切り捨てての結婚だったのですが、こともあろうか周辺の人々は傷心の智を騙して式場に誘い込み、さらにその場で祝福の言葉を語らせるという暴挙にまで出たのです。
 どう考えてもありえない話ですが、人々は実に天真爛漫です。それは彼らが、幼馴染の智と暢子は和解すべき――厳しい試練を乗り越えても、元の仲良しに戻るべきだと考えているからです。
 実際に智は精一杯の思いを込めてスピーチをし、もとのこだわりのない関係に戻ってメデタシ、メデタシとなります。フィクションですから。
 けれど現実にそんなことが行われたた、人々はどう考えるでしょう?

【強制有理・純真無罪】

 こうした設定は何度でも繰り返されます。
 30数年前に誤解から別れることになった恋人同士は、互いに向かい合い、語り合ってわだかまりを解消する必要がある、と主人公たちは考えます。そこには過去に封をした当人たちの思いに対する配慮は一切ありません。今さら誤解を解くことに何の意味があるのか、といった疑問もなければ、現在すでにもっている家庭や配偶者に対する配慮もなく、焼けぼっくりに火が付いたらどうするのだといった恐れもありません。

 その他、結婚に反対する恋人の母親に毎朝手作り弁当を送り届けるという脅迫、主人公の妹へのプロポーズを躊躇う友人への過剰な関与――。される側からすると「たまったものじゃない」そうした行為が、平然となされるのはそこに、
「純粋な気持ちから行われた行為は否定されてはならない、むしろ尊重されるべきだ」
という強い信念があるからです。
 私はそれを中国の文化大革命に倣って、
「強制有理(強制する側にこそ理がある)、純真無罪(純粋な動機から行われたことは《結果はどうであれ》無罪である)」
と呼ぶことにしましょう。

【”純粋”は言い訳にできない】

 大人社会は結果に対して責任をとるようにつくられています。純粋な動機があればすべてが許されるというようにはできていません。もしそれでよければ安楽死事件のほとんど、子殺し、ストーカー殺人、見方によれば安倍元首相暗殺犯だって許されるようになってしまいます。そんなバカなことはない。
 「ちむどんどん」が視聴者の一部を怒らせたのは、そうした無神経な純粋さや傲慢さ、強圧が平然と行われたからであり、それにも関わらず誰も失敗したりしっぺ返しをされたりしなかったからです。大人社会ではありえないのです。
 
 しかしそうは言っても、一歩ドラマから身を引いて社会全体を見渡すと、似たような無神経な純粋さがまかり通り世界もあることに気づかされます。子どもの世界です。

【無神経がまかり通る子どもの世界】

 代表的なのがいじめです。
 さすがに現在では「口で言っても直らないから叩いて直してやる」と言い放つ子はいませんが、「言ってあげるのが本人のため」は根強く残っています。
 人の欠点をあげつらったり、遠回しに言うべき内容を直接言ったりするのも、子どもらしい特徴のひとつです。好奇心に駆られると聞いてはいけないことも平気で訊ねたりします。

「子どもは純粋だ」と言います。もちろんその通りで好ましい面も少なくありません。しかし純粋だから恐ろしいという面も同じくらいたくさんあることを、私たちは忘れてはならないのです。