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「自分の中に複数の『自分』をみつけ、友だちの袖を引ける子を育てる」~「ちむどんどん」にみるものの見方考え方④  

「ちむどんどん」の問題の多くは、
登場人物たちは、あまりにも幼いところから来ている。
しかしだからと言って子どもが二十歳前に老成するのも考えものだ。
そこにまだ行うべき教育があるからだ。
という話。(写真:フォトAC)

【大人があれでは困るが、子どもがそうでなくても困る】

 NHK朝の連続ドラマ「ちむどんどん」は結局のところ大人が子どもの真似をした、あるいは子どもが大人になっても子どものままだった物語です。しかし大人社会で子どものふるまいをすればすぐに行き詰まってしまいますから、実際のところ、なんとか半年間ドラマを続けようと思ったらご都合主義と欺瞞で繕うしかなかったのでしょう。どう考えても不必要な挿話が入ったり事件がたびたび起こったりするのも、単なる引き延ばしに過ぎなかったのかもしれません。
 
 しかし“子どものやり方では大人社会でうまく行かないよ”と言っても、最初から大人の真似事をされても困ります。
 小学生のうちから身の程を知った夢しか持たず、さまざまな思惑をすり抜ける智恵ばかりが身について、無暗・無責任に応援してくれる友だちもいないとしたら、子どもの世界はずっとつまらないものになってしまいますし、大人から見ても好ましいものではありません。
「世の中のたいていのことは程度問題だ」という言い方もあります。大人の勝手な言い方をすれば、適切な夢を持ち、そのための努力をきちんとして、仲間とともに協力して成長して行ってほしいのです。

【世の中の価値はひとつではない】

 私は「自分の気持ちに正直に」という言い方が好きではありません。大人が言うのはもちろんですが、子どもが言うのも嫌です。ときにそれが「自己の欲望を全開に」というワガママと変わりない使い方がされるからです。暢子の叫ぶ「諦めたくないんです!」がまさにそれです。

 夢を諦めたくないのは誰だって同じです。しかしそれでも多くの人々が諦めていくのは、人の心に宿る価値が必ずしもひとつではないからです。他にも守りたいものがいくつもあるから夢は相殺されたり低く見積もられたりして消えていくのです。例えば自分の夢は家族を犠牲にしてでも追求すべきものなのか、別の可能性を投げ打っても取り組むべきことなのか、単純にそこまで金をかける価値はあるのか――そういったさまざまな価値の間で、夢が諦められる場合が多いのです。
 そういった多角的な見方ができるようになれば、動機さえよければ結果はすべて認められるべきだ」などとは言い出さないでしょう。

【「本当の自分の気持ち」はひとつだけかい?】

 しかしそれ以前に、そもそも私たちは「自分の気持ち」を正確に把握できるのでしょうか。「勉強はしたくないけどレベルの高い高校へ行きたい」というとき、「勉強をしたくない」自分と「レベルの高い高校に行きたい」自分の、どちらの気持ちに従えばいいのでしょう?
 両方とも自分の気持ちに違いありませんが、同時に手に入れることはできません。可能なのはどちらかひとつを手に入れるために別の何かを諦めるか、そこそこの勉強をしてそこそこの高校に進学する自分を受け入れるかのどちらかです。
 
 私たちはそうした現実を繰り返し子どもに突きつけなくてはなりません。いま言った「自分の気持ち」と矛盾する別の「自分の気持ち」はないのか、いまときめく自分の心はこの先もずっとときめいていられるのかどうか――。
 それが大人である私たちに課せられがひとつの課題です。

 【友だちの袖を引く子】

 「ちむどんどん」を見ながら考えたことのもうひとつは、「友だちの袖を引ける子どもを育てたい」ということです。
  友だちのやることに正面から反対したり止めたりすることは容易ではありません。いじめ問題では「傍観者も加害者と同じだ」といった言い方もされますが、だからといって正面切って「いじめはやめろ」などと言うことはなり難しい。自分が次の目標になる可能性を考えるとなおさらです。しかし加害者の袖を引くくらいはどうでしょう? 
「もうそろそろにしてあっちで遊ぼう」とか、「それ以上やったら『いじめ』って言われちゃうよ」とか、正面を避け、横合いからちょっと袖を引くのです。
 いじめ行為を止めるのは被害者を守ると同時に、加害者をそれ以上に悪くなることから守ることでもあります。悪くなろうとする友だちの袖はぜひとも引いてやらなくてはなりません。
それが「ちむどんどんが止まらない!」と叫ぶ暢子の隣りにいて欲しかった存在です。
 そうしたことも私たちの課題のひとつです。