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「胸がときめくなら、あとはどうでもいいじゃないか」~「ちむどんどん」にみるものの見方考え方①

悪評芬々のNHK朝の連続ドラマ「ちむどんどん」が終わった。
わざと焚きつけているとしか思えない矛盾や錯誤、
主人公たちの傲慢や無神経。
しかしそこにも見るべきところはあるのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【「ちむどんどん」終わる】

 NHK朝の連続ドラマ「ちむどんどん」も先週で終わり、昨日から新ドラマ「舞いあがれ!」が始まりました。私は主演の福原遥さんが好きですし、母親役の永作博美さんも好きなので大いに期待しています。
 
 悪名高い前作は、私も最後まで見続けましたが、実際どういう意図でああした脚本になるのか、首を傾げることしきりでした。
 東京丸の内に社屋があると思われる新聞社の編集長と部下は、昼休みにふらっと立ち寄る体で横浜鶴見区にある主人公の料理店に食事に来るし、その店から銀座は目と鼻の先にあるらしく主人公の暢子は財布も持たずにやってくる。
 その銀座のレストランに後ろ足で砂をかけて逃げ出した料理人や、千葉の養豚場から家出した娘は、選りによって二人とも引力に吸い寄せられたように横浜鶴見に流れ着いて、結局は主人公を助けることになる。
 主人公の兄は同じ男から再三詐欺の片棒を担がされ、手先となって悪事を働くがそのつけは平然と家族が背負い、兄を責めることはないと、そういった有様です。
 
 まだまだ言い始めるときりがないのですが、すでに終わったドラマですしツイッターやネットニュースでさんざん叩かれたあとですので、これ以上は言わないでおこうと思います。
 ただ、そこまで支離滅裂とご都合主義がはびこるドラマでありながら、その中に一貫して流れる何本かの潮流と言いますか、考えと言うか、一種の理念があって、そのことが気になっていますので一応あつかっておこうかと思います。

 

【胸がときめくなら、あとはどうでもいいじゃないか】

 そのひとつは、
「胸がときめくか、心がキラキラと輝くか、それがすべてである」
という考え方です。
 ドラマタイトルの「ちむどんどん」はまさにその「胸がときめき、心がキラキラと輝く」様子を表す言葉だそうですが、そこがすべての価値の起点であるという考えは、主人公によって次のように表現されます。
「好きなら、ちむどんどんするなら、まくとぅそーけー、なんくるないさ、であるよね」
 
 「まくとぅそーけー、なんくるないさ」は調べると、「人として正しいことをすれば、大丈夫、なんとかなるさ」という意味だそうです。だから全体は、
 「好きなら、胸がときめくなら、そして道さえ踏み外さなければ、あとは何とかなるよね」
ということなのですが、ここで問題なのが主人公にとって「自らの胸のときめきに従うこと」と「人として正しいこと」とはどうやら同じらしいのです。
 だから文の前半は同義反復でしかなく、簡単に言ってしまうと、
「胸がときめくなら、あとはどうでもいいじゃないか」
ということになってしまいます。
 それでいいのでしょうか?

【価値が一つなら問題は少ない】

 私たちの悩みのほとんどは自分と周囲との二律背反から来るものです。
「都会に出たいが、地元に捨てられない家族がいる」
「彼のことは好きだけど、すでに彼には婚約者がいる」
「お店を持ちたいけど、夫が失業してしまった」
「仕事を始めたばかりなのに妊娠して身動きが取れなくなった」
 
 こうした一見ゼロサム・ゲームのような状況で、自分を取るか相手を取るか、はたまた第三の道はあるかもしれない、4・6とか7・3とかいった妥協点が見つかるかもしれない、そんなふうに考えるからいつまでたっても物事が決まらない、迷いが繰り返されて悩みが深まる、それが私たちのふつうの在り方です。そこにはさまざまな価値が入り乱れて、容易に整理がつかないのです。
 ところが「ちむどんどん」の主人公はすべてをたったひとつの価値でぶった切ることができます。
「好きなら、ちむどんどんするなら、まくとぅそーけー、なんくるないさ、であるよね」
 そして暢子は欲しいものすべてに手を出し、すべて手に入れてしまう。

 ある意味、理想的な人生で、かつ非現実的な人生です。
「ちむどんどん」の主人公は沖縄の人なので沖縄言葉で表現しましたが、本土の若者は本土の言葉で同じことを言います。
「自分に正直に! やるっきゃない!」
 結局、若者の望むことはいつも同じです。

(この稿、続く)