カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「大切なのは自分がやったということ」~反ワクチン派なぜかくも頑固なのか② 

 他人に押し付けられたことは長続きしない、
 また、押し付ける側には何らかの意図があるかもしれない。 
 それに対して、自らの力で手に入れ、
 自らの自由意思によって決めたことには価値がある、
 そう考えることはあながち不条理ではない。

という話。  

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(ヴィンチェンツォ・カムッチーニ作「シーザーの死」)
 
 

アントニーの詐術】

 「アントニーの詐術」は昔、山本七平という評論家がシェークスピアの戯曲「アントニークレオパトラ」を題材に、大衆が扇動者(この場合はアントニー)によって群衆化し、態度を反転させて行動に移すまでの過程を説明しようとしたものです。
 山本によれば、シーザーの遺体を前にアントニーが大衆に呼びかける場面で、使用した詐術は次のみっつです。
1.自分に都合のよい事実の編集  
2.問いかけ  
3.民衆と死せるシーザーとの一体感の醸成


 そのことを念頭に、実際の文章を読んでみます。周囲の心配をよそにブルータスがアントニーに追悼演説を許可した次の場面です
「シーザーはわが友であり、私にはつねに誠実、かつ公正であった。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、ブルータスは公明正大の士である……
 生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ったことがある、しかもその身代金はことごとく国庫に収めた。かかるシーザーの態度に野心らしきものが少しでも窺われようか? 貧しきものが飢えに泣くのを見て、シーザーもまた涙した。野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そしてブルータスは公明正大の士である。
 みなも見て知っていよう、過ぐるルペルカリア祭の日のことだ、私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たび却けた。果して、これが野心か? が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、もとより、ブルータスは公明正大の士である。
 私はなにもブルータスの言葉を否定せんがために言うのではない、ただおのれの知れるところを述べんがために、今ここにいるのだ。(中略)……みな、許してくれ、私の心はあの柩のなか、シーザーと共にあるのだ、それが戻ってくるまでは先が続けられぬ。(泣く)


 この中で私が特に注目するのは2の「問いかけ」です。
 アントニー「野心らしきものが少しでも窺われようか?」と言ったとき、大衆の心の中に何が起こったか。
 答えは単純です。その前に「生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ったことがある、しかもその身代金はことごとく国庫に収めた」と説明されたあとでは、人々の心の中に浮かぶのは「否、シーザーには野心などなかった」以外にありません。
「私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たび却けた。果して、これが野心か?」
 ここでも答えは、「否、シーザーは野心家ではなかった」です。

 なぜそうなるのかというと、アントニーがシーザーに有利な事実だけを選択的に示しているからです。これが「1.自分に都合のよい事実の編集」です。しかし人々はそうした判断を押し付けられたとは思ってはいません。事実は事実ですし、アントニーは一度も「シーザーに野心はなかった」とは言っていないからです。それどころか繰り返されたのは「ブルータスは公明正大の士である」という賛辞だけなのです。
 かくして人々は自主的に、自らの意思によってシーザーの偉大さを確認し、「ブルータスを殺せ!」と叫ぶようになります。
 大事なことは、それが強制されたものではないということです。自らの自由意思によって、自分が決めた――だから能動的に、熱狂的に動こうとするのです。
 
 

【子どもの自主性をたいせつにするということ】

 実は、似たようなことが学校の授業の中でも頻繁に行われます。
 大きな公開授業などで、子どもが実に生き生きと自由に考え、自由に活動しながらぐいぐい学習を進めている姿を見て、初めての人はほんとうにびっくりします。テレビのニュースなどでときどき紹介される「◯◯について中学生たちが学びました」と言った授業風景がそれです。

 中には「あれは外部向けにリハーサルを積んでいるんだ」などと言う人もいますが、そんなことはありません。リハーサルなんてしたものなら、ちょっと違っただけでも子どもたちは「あれ? 昨日のリハと違っているじゃん」くらい平気で言いますから怖くてできないのです。

 そうではなく、何日も何百時間もかけてつくった授業案というのは、児童生徒が最終的に目標の地点にたどり着くよう、山ほどの仕掛けがしてあるのです。
「子どもたちがこう聞いてきたらこんなふうに返そう」
「筋の違う方向へ進みかけたら、この資料で対応しよう」
「この辺りで停滞するから、こんなふうに励まそう」
 そうした対応策の集積が授業案(指導案)なのです。がんじがらめではないのですが、子どもたちは緩やかに一定方向に進まされます。それと気づかないうちに――。

 しかし例えば、「三平方の定理ピタゴラスの定理)の証明法は100通り以上あると言われていますが、代表的なのは次の五つです」と説明してしまえば済む話を、なぜ2時間も3時間もかけて生徒にやらせるのか――。
 もちろんそれをしなければ数学的な考える力がつかないということもありますが、もうひとつの大事な点は、「学習は本人が主体的に取り組まないと身につかない」という原則があるからです。
 そのために教師は、生徒たちが自主的に取り組み、自分たちの力だけで目標を果たしたという擬制をつくろうとするのです。子どもたちはその擬制の中で成功体験を繰り返し、その自己効力感を糧に、次の課題に向かっていくのです。
 
 

【大切なのは自分がやったということ】

 現在は知りませんが、かつては新聞記者も警察官もセールスマンも、「足で稼げ」と言われた時代があったはずです。要するに現場を数多く踏めという体験主義です。自分の足で稼ぎ、自分の目と耳で確認せよという考え方には伝統があります。

 反ワクチンの人々、特にアメリカの反ワクチンの人々は必死と言っていいほどの熱意をもって自ら調べる人たちです。私のように政府やマスコミの言うことを簡単に信じて接種に出かけるような人間ではありません。
「見ずして信ずる者は幸いなり」と言ったイエスのしもべにあるまじき彼らは、自身の努力によって掴んだからこそ、コロナワクチンの非を叫び続けているに違いありません。
 しかしその調べ方にこそ、問題がある。