カイト・カフェ

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「スポック博士の育児書」③

 スポック博士は子どもに冷淡で残酷な人なのか、愛と優しさに包まれた暖かな養育を勧めた人なのか、もう少し文を拾ってみます。

 こどものしつけには、ふだん、わりにのんびりしている両親、たとえば人なつこい子だったら行儀がわるくても何ともいわないとか、ぐずでもだらしなくても大して気にならないとか、そんな両親でも、ここは大事だとおもったことは、きちんと厳格にしさえしたら、けっこうおもいやりがあって、ほかの人とうまくやってゆける子を育て上げることができるものです。
 ちょっと読むと「ああなるほどなあ」という気持ちになりますが、これは詐術です。
 どんなにいい加減でだらしない親でも、ここは大事だとおもったことは、きちんと厳格にしさえしたら、きちんとした子どもを育てることができる――そんなのは当たり前じゃないですか。この言い方だと親など何でもいいのです。とにかくここは大事だとおもったことは、きちんと厳格にしさえしたらいいのですから。
 しかし実際にはそうはならない。なぜなら「ここは大事だ」という判断の基準は極めてあいまいだからです。基準の極めて高い親は一日中あれもこれもきちんと厳格にしたがるでしょうし、基準の低すぎる親だとほったらかしです。そう考えるとこの文は何も言っていないのと同じです。

 もう一つ見てみましょう。
 のんびり育てて、こどもがおもうような子にならなければ、親は甘すぎたと考えるかもしれません。むろん、それも原因の一部かもしれませんが、それがすべてではないのです。むしろ、親がこうさせたいとおもいながら自信がなく、ぐずぐずしていたり、そうしてはいけないのかと気がとがめたり、知らずしらずに、こどものわがままを、そのままにさせていたためのことが、多いのです。
「知らずしらずに、こどものわがままを、そのままにさせていた」――親のそういう態度はふつう「甘すぎた」と言います。つまりこの文は、
「親が甘すぎたのではなく、親が甘かったからです」ということでしかありません。

「スポック博士の育児書」で最も有名ない一節は 、
「自分を信じなさい。あなたは自分が考えるよりはるかに多くのことを知っている」
というものです。
「良き母親と父親が子どものために好んでとる本能的な行動は、たいてい最良の行動なのです」と言い、「子どもを楽しみなさい」とも語りかけます。
 友人や近所、医者の様々な意見よりも「恐れずに自分自身の常識を信じ」「自然な愛情」を子どもに与えることが大切だというのです

。  どうやら「スポック博士の育児書」が目指したのは、それまで厳格な育児論に縛られた親たちから子育ての重荷を取り除くことだったようです。
 子どもをきちんと育てましょう、そうでなければ子どもは悪魔になってしまう。
 子どもの睡眠時間を厳格に守りましょう、授乳の時間排便の時間も厳しく管理しなければなりません。わがままは言わせてはなりません、子どもは母乳で育てるのが一番よく、むやみに泣かせてはいけません・・・。
 それらは当時の親にとって、とてつもなく大きな負担であり苦痛だったのです。親は疲れ果て自信を失っていました。そこで博士は言います。

「母乳にこだわることはありません。十分に出ない人だっていますからね。ミルクで十分いいのです。専門家が丁寧に調合したものですから母乳よりいいのかもしれません。
 また赤ん坊が泣くたびに抱いていてはたまらないでしょう。放っておけば泣き止むものです。それより夫婦の時間を楽しみましょう。赤ん坊を早くひとりにすることはその子の自立に役立つかもしれません」
 ここが現代日本のネット上でメチャクチャ叩かれることになる部分です。

「子どもが可愛ければ思った通り可愛がればいいのです、子どもの望むことはできるだけかなえてあげましょう。親の自然な気持から起こることはすべて正しいのです」
 これががベトナム戦争の時期に徴兵忌避やヒッピーを生み出す育児論だ猛烈に批判された部分です。

 すべての人を認めたからすべての人から認められた――第二次大戦後、聖書に次いで最も売れた本という称号はこうして与えられたものです。
 しかし万人に媚びをうることは万人から憎まれる可能性を胚胎します。

 もはやスポック博士の出る幕はありません。「育児論」にしても、1997年の第6版を最後に日本では出版されなくなっています(本国アメリカでは2004年の第8版が最終)。