人間以外のより高い何者か

 日曜日に父の一周忌の法要を行いました。1年たつとやはり人間のぬくもりも死の生々しさも忘れられてしまい、「ああやはり父も仏様になったのだなあ」とつくづく思います。

 ところでこの“仏様になった”という言い方、本来は非常に問題を抱えたものなのです。なぜなら「凡夫の父がお釈迦様と同じ高みに立った」ということなのですから。

 サンスクリット(古代インド語)で「悟りを開いた人」を「buddha」といいますが、中国に伝わったとき、ある人は「仏陀ブッダ)」の文字をあて別の人は「浮屠(フト)」の字をあてました。そして「仏陀」は「仏」と省略され、「フト」は霊的なものを表す接尾語の「ケ」をつけて「フトケ」となり、やがて「ホトケ」となりました。つまり“仏様になる”も“仏陀になる”もまったく同じことで、父はもはや「悟りを開いた人」なのです。

 たくさんの勉強をし議論を重ね、やがて苦行に入ってそこから山を下り、ようやく悟りを開いたお釈迦様の高みに、父は「ただ死ぬだけ」で立ってしまった、なんともいい加減みたいな、なんともそっけない話です。しかしこの考え方は日本人に良く合います。死ぬと人間は“人間以外のより高い何者か”になってしまうのです。

 最近、自民党の安部新総裁以下、何人もの閣僚経験者が靖国神社に参拝したとかで、中国のメディアやネットでは盛んに非難されています。

「日本人が靖国神社に参拝するのは、ドイツ人がヒトラーの墓を飾るのと同じだ」

 ところがこの論理、日本人にはさっぱりわからないのです。理屈としては分かるのですが、感覚的にどうしても分からない。「いやあ、それは違うだろう」と口に出しかけ、しかしそんなことを言うとまた説明を求められそうだからあわてて語尾を濁し、ごまかして逃げ出す、そんな感じです。

 何が違うのか。

「ドイツ人がヒトラーの墓を飾るのと同じだ」というのが違うのです。ネオナチにとってヒトラーは英雄です。しかし日本の場合、右翼の人たちにとってさえ、靖国神社の中におわすのは「英霊」であっても「英雄」ではありません。それは英雄とか敵だの味方だのといったあらゆる人間的なものを超えた、“人間以外のより高い何者か”なのです。

 対象は何も日本人ばかりではありません。

 1945年、太平洋戦争の真っ最中の5月、交戦国アメリカの大統領ルーズベルトが急死します。すると日本の首相の鈴木貫太郎は、アメリカ国民に対して弔意を表す談話を発表するのです。このことをアメリカに亡命していたトーマス・マンは次のように書いています。

「ドイツではみな、万歳万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ」

 また日露戦争のあと日本はいち早くロシア兵の慰霊塔を建てるのですが、それは日本人兵士の表忠塔を建立する2年も前のことでした。「表忠」なんて「慰霊」に比べたらずっとあとでもいいということです。いずれも人が “人間以外のより高い何者か”になったと考えるからこそできることです。

 広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」も、人間が“人間以外のより高い何者か”に語りかける言葉であって、日本人が世界に詫びるといった面倒くさい話ではありません。

 しかしその考え方はもう日本の民族宗教みたいなものですから、外国の方に理解してもらうのは容易なことではありません。中韓の厳しい追及の前にも、ただオロオロしていなければならないのはそのためです。