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「親心の記録」~自分が死んだあと、障害のある子が困らないように

 昨日の朝のニュースで、北海道の知的障害者の保護者グループが、親を突然なくした場合も子どもが困らないよう、年金などの手続きを事前に記しておく冊子「オホーツク版・親心の記録」というものを作った話をしていました。「オホーツク版」というのは、それぞれの地域に合わせて作ってあるからで、元の版は千葉県から始まったもののようです。

 年金などの手続きの他には、
 定期健康診断―「毎年5月に〇〇医院」、
 本人の性格―「食べることがすきで、お金に無頓着」
 成年後見人をお願いしたい人―「本人の弟」
 子の死亡時の葬儀や墓―「〇〇寺、お墓は〇〇霊園。できるだけ質素に」
 子の人生について願うこと―「自分らしく生きて欲しい。うまれてきてくれて ありがとう」
と、そんな内容が書かれるようです。

 それは言わば、自分が死んだあとで子を誰かに託すための引継ぎ書のようなものです。そうした書類を必要とする親心、察するに余りありますね。

 障害者雇用促進法障害者基本法にも関わらず、障害を持つ方たちを社会で支える仕組みはまだ十分に整っていません。結局は、親の必死の支えによってかろうじて社会の片隅と繋がったり生活を維持したり、といった状況が今も続いています。そうした親からすれば、自分亡き後の子どもの生活を考えることは、絶望的な思いに駆られることなのかもしれません。

 ただし、(誤解を恐れずに言うと)身体障害や知的障害の場は、まだ安心できる状況があります。両者とも歴史の長い背景がありますので、微力ながらも社会システムや親のノウハウという点で、一日の長があります。ところが、同じ子どもの不安でも、引きこもりと発達障害の場合は、両者とも社会的対応が極端に遅れてしまった面があります

 引きこもりについていえば、支援の手はほとんどどこからも伸びていません。不登校からの引きこもりだと、学齢期にはいくつもあったはずの支援の場(学校・教育センター・児童相談所・各種NPOなど)が、成人とともにざっくりとなくなってしまうのです。発達障害の場合、外見上は定型発達とほとんど見分けがつきませんので、特別扱いというものが非常に困難になります。またコミュニケーションの困難が障害特性である場合、企業も非常に雇いにくい側面があります。私の知り合いの企業人によれば、「身体障害や知的障害はハイテクで相当量カバーできる。しかしコミュニケーションの障害の場合、時に組織自体が破壊される」というのです。学級における発達障害の子どもの状況を考えると、いかにもありそうなことです。

 そうした子どもたちは社会的支援も十分ない中で、保護者が必死に支えていますが、それとて永遠に続くものではありません。基本的に、親は子よりも先に死ぬからです。そうした親たちにとって、死を恐れるというのは私たちとはまったく異なる意味を持っています。

 私はいつかそうした親子の役に立つ仕事をしたいと思っています。しかし今すべきこと、今できることもたくさんあります。それはとりあえず不登校の子を出さないということ、そして発達障害を持つ子に、少しでも社会性をつけて社会に送り出すということです。何とか力になりたいものですね。

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