カイト・カフェ

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「マネ以前の裸の女性は皆、女神」~人生にもっと勉強しておくことがたくさんあった

 長く美術館巡りをしてきて、さまざまに調べてきたこともあったのに、
 たったひとつの知識がなかったばかり、行き届いていないことがあった。
 今からでも遅くはないが、
 人生に、もっと勉強しておくべきことがたくさんあった。
という話。

f:id:kite-cafe:20210518074011j:plainエドゥアール・マネ「草上の昼食」1862年1863年

 

 

 【私の絵画鑑賞】

 新型コロナ禍のためにもう一年以上も行っていませんが、ここ10年余りは毎年東京の美術館に行って大型の美術展を観るようにしてきました。

 基本的にジャンルは問いませんが、日本人は印象派が好きですから自然と印象派展を観る機会が多くなっています。美術館に通い始めるきっかけが1982年のモネ展(国立西洋美術館)でしたから,、私自身も嫌いなわけではありません。

 絵画の中には描かれた中身に知識がないと分からないものもあって、例えばボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」に描かれた6人の男女にはきちんとした名前があり、それぞれの仕草や表情には特別な意味があります。もちろん知らなくても鑑賞はできますし、真に鑑賞力のある人にはむしろ邪魔なものかもしれませんが、金銭に意地汚く、入場料の元だけは取ろうといった卑しい性根の人間(例えば私)にとっては、知識はなくてはならないものです。
 またそれとは別にパッと見で良さがさっぱりわからない絵(私にとっては例えば「モナ・リザ」)についても、やはり情報がないと何の感動も感慨もなく帰ってくることになりかねません。

f:id:kite-cafe:20210518074204j:plainボッティチェリ「春《プリメーラ》」1477年~1478年頃)


 そこでたいていの場合、500円ほどの追加料金を払って解説の音声ガイドを借り、ヘッドフォンを頭に乗せながらの鑑賞ということになるのですが、印象派の場合は知識がないと決定的に困るということはありません。ただ鑑賞すればいい、説明されなければだめなようでは印象派ではない、といった感じがあります。

 ところが稀に、何が描かれているのか知る必要があり、解説を聞いてもさっぱりわからないことがあります。聞かなければむしろサラッと通り過ぎることができたのに、中途半端な説明を聞いたばかりに身動きが取れなくなる絵――その代表的なのが冒頭に掲げたマネの「草上の昼食」です。
 
 

【何を今さら不道徳】

 とりあえずピクニックの最中に、三人の男女のうちの女性だけが裸になっている――という絵柄が理解できません。しかも昼食時です。少し後ろにいる女性も半裸なのですが、手前の男性二人がそこそこの厚着で、真夏というわけでもなさそうなのになぜ裸なのか? 
 そのうえ解説で、
1863年のサロン(官展)に出品したが、『現実の裸体の女性』を描いたことが『不道徳』とされ落選。その後、同サロンに落選した作品を集めた落選展にも展示されたが、同様の理由で批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした」
と聞かされると頭の中が「?マーク」で埋まってしまいます。今さら何の不道徳でしょう?

 西洋絵画に見られる裸の女性なんて小学校高学年のころ、図書館の美術全集で胸をときめかせて以来、ずっと見続けてきたものです。今さら不道徳と言われても、ずっとそんな不道徳な気持ちのまま鑑賞してきた私には、さっぱり理解できないのです。

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 確かにボッティチェリの「春(プリメーラ)」も「ビーナスの誕生」も描かれている女性は全員女神で「現実の裸体の女性」ではありませんが、モネが「草上の昼食」で下敷きにしたというティツィアーノ(ジョルジョーネ)の『田園の合奏』(右)だって、着衣の男性の傍らに二人の裸の女性がいる。
 同じくマネの代表作「オランピア」は、これも下敷きにしたティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』と何が違うのか――。
 
 

【マネはサロン(官展)に裸を投げつけた】

 ところが最近知ったのですが、Wikipedeiaでティツィアーノの『田園の合奏』を調べると、
 2人の女性は、男性たちの幻想と霊感から具現化した理想美の化身である。おそらく、ガラスの水差しを手にした女性は悲劇的な詩歌の女神であり、フルートを手にした女性はのどかな田園を詠った詩歌の女神である。
とあるのです。
 さらに先ほどの「ウルビーノのヴィーナス」と「オランピア」ですが、「ウルビーノ~」が女神なのは当然として、それにそっくりの「オランピア」が「現実の女性」かと言えば、サンダルを履いて首にリボンを巻くという姿が女神にありまじきものであるばかりでなく、そもそも「オランピア」という題名自体が当時のパリにおける娼婦の通称だったというのですから間違いなく「現実の女性」です。

f:id:kite-cafe:20210518074450j:plain(左:「ウルビーノのビーナス」、右「オランピア」)


 最初に戻って「草上の昼食」では、左手前のバスケットの横に脱いだ服が置かれていることから、女性が女神ではないとされます。

 なるほど、マネは暗示的ではなく、あからさまに当時のサロン(官展)に反抗し、作品を投げつけていたわけです。
 
 

【人生にもっと勉強しておくことがたくさんあった】

 マネ以降、現代に至るまで、人間の裸は美術の重要なテーマです。描かれるのは女神ばかりではありません。しかしそうなるとマネ以前の絵画に現れる裸の女性はみんな女神か、ということになりますが、それで唐突に思い出したのが「民衆を導く自由の女神」(1830年)です。

f:id:kite-cafe:20210518074528j:plainドラクロワ民衆を導く自由の女神1830年

 
 フランス七月革命の民衆を描いたドラクロワの傑作ですが、私はずっと昔から、なぜこの女性が胸をはだけているのかわからなかったのです。騒乱の中で肩ひもが落ちてしまったということもないわけではなさそうですが、絵画なのだからムリに出すこともないだろうに、と思ったのです。しかし今、分かりました。

 これは象徴的に「自由の女神」と呼ばれる実在の(あるいは実在のように描かれた)女性ではなく、本物の女神なのですね。「民衆を導く自由の女神」は目に見えない本物の女神、「現実の裸の女性」ではないから裸を描いてもマネのようには問題にならなかったのです。逆に言えば裸で描くことで、女神だと示したわけです

 そんなことを今ごろ知っても意味がないとは言いませんが、20年、いや10年前でもいい、そのころから知っていればもっと違った目で見られる絵もたくさんあったはず。
 なかなか残念な人生です。