カイト・カフェ

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「受験は団体戦だ」~「わけの分からない校則」にもわけがある④

 何やかや言っても、最終的に子どもの願う進路を選ばせたい、
 次の段階に進むのに、挫折からスタートさせるのは忍びない、
 そう考えると結局、良き受験生を育てるのが教師の仕事ということになる。
 しかしその受験は、団体戦として戦わないと厳しいものなのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20210408072929j:plain(写真:フォトAC)

【支え合って勉強をする、支え合って勉強をしない】

  芸人のラサール石井は芸名の通りラサール高校の出身で、高校3年生の時に東京大学を受験して失敗しています。
 本人の話だと「とれもではないが東大に合格するような成績ではなかったが、ラサールの場合、一緒に受験に行く仲間の数がハンパではなく、ときどき『せーのォ、ホイ』みたいな勢いで紛れて合格してしまうようなヤツが出てくる。それを狙って挑戦したのですが、ダメな時はダメでしたね」(大意)
 最後はともかく「みんなで頑張るぞ」「みんなで合格するぞ」と気勢を上げると、その勢いで合格してしまう生徒がいる、というのはよくわかる話です。長野オリンピックでも最初の有力選手、清水宏保が金メダルを取った瞬間に後続たちが一斉にメダルを取れるような気がしてきて、実際に量産しました。

 それと正反対なのが沖縄です。
 沖縄県は全国学力学習状況調査(全国学テ)が始まった2007年から6年連続で小中ともに最下位で、「ふりむけば沖縄」という言葉ができたほどでしたが、その後、学力全国一位の秋田県から講師を招くなどして学力向上に努め、2019年にはついに小学校国語で5位、算数で6位という好成績を取るに至りました(2020年はコロナのため中止)。ところが中学校の方は、点数は伸びたとはいえ国語・数学・英語の三教科すべてで、相変わらずの最下位です。

 小学校と中学校で何が違ったのか。
 実は沖縄の中学校には「まーめー」という特殊な概念があって、それが邪魔するらしいのです。
テレビで見ただけですから詳細は分かりませんが、「まーめー」は「真面目」を語源としていて、真面目であることをからかうというよりはさらに一歩進んで、「学校の勉強はいい加減だったのに社会的に成功する」、そういう生き方こそ格好いい、目指すべき姿だ、といった価値観があるようなのです。
 私たちが高校生のころも、東大や早稲田を中退することこそが格好いいのであって、卒業するようではだめだといった歪んだ価値観がありました。比較的最近でも、ホリエモン村上世彰のように、額に汗して働くのではなく情報と才覚だけで一瞬のうちに数億円を動かす生き方こそ正しいといった時代もありました。
 いずれにしろ、こうした歪んだ価値観からは一生懸命勉強しようという気分は生まれて来ようがありません。沖縄の中学生の成績を上げるのは、これからも大変でしょう。
*ただし私は沖縄の中学生がダメだと言っているわけにではありません。こうした価値観の裏には地域や保護者の意向が働いている場合が多いからです。私が以前勤めた牧畜業のさかんな地域では「そんなにいい成績を取って、都会に行って帰って来られなくなっても困るで・・・」といった調子で勉学には全く不熱心で、子どももガツガツと勉強したりしませんでした。それでも教師は学力をつけるために頑張らなくてはいけませんが、地元や親がそれでいいなら、子どもたちもそれでいいのです。
 
こういう地域で学力順位うんぬんをいうのは政治家と地域ナショナリストだけですから、彼らを黙らせればいい。
 
 

【受験は団体戦だ】

 はじめて中学校の学級担任になったとき、私が最も大切にしたのは生徒の自由と自主性でした。おかげで「みんなを自由にすると、誰も自由でなくなる」という法則を発見することになるのですが、今日はその話ではありません。

 個人が大事で集団性が嫌いだった私は、クラスマッチや合唱コンクールのような「みんなで力を合わせる」といった行事にも不熱心でした。そもそも学校は勉強をするところで、そんな余暇めいたものにエネルギーを注ぐことはないと思っていたのです。
 ところが3年生になっていざ受験という時期になると、私のクラスだけが成績が低い――いや10クラスもありましたから他にも低いクラスはあったのですが、上位のクラスとは平均点で段違いの差ができていたのです。
 しかもそれまでの2年半、クラスマッチだの合唱コンクールだので華々しい活躍を競っていたクラスばかりが、ここでも上位に並んで光り輝いているのです。

 クラスごとの平均点など外部に出すことはありませんが、入試が終わって進路がはっきりするとどうしても学級の学力差は表面に出ます。地域のトップ校に5人~6人と送り込むクラスがいくつもあるというのに、私のところはたった二人しかいません。トップが二人しかいないということは、私のクラスの多くの生徒がランクの階段を一段下がって進学しているということになります。
 これには私も参りました。たくさんの子どもたちが「挫折」から高校生活を始めるのです。

 「受験は団体戦」という言葉を知ったのはそのころでした。
 私自身が受験生だった頃は「友だちを蹴落としてまでも」みたいな言い方が流行しましたが、高校は全県、大学は全国が相手ですから隣のひとりを引きずり降ろしても何にもならないのです。それよりは隣と競い、力を合わせ、問題を出しあい、教え合う方がよほど有利です。
 勉強の苦しい夜、あと一問が解けないときも、
「オレも苦しいがアイツらも頑張っている」
「明日、会って恥ずかしくないようにもう少しがんばろう」
 そんな自分に対する言い聞かせがどれほど力になるか、想像に難くありません。スポーツもそうですが、独りで戦うより、みんなで戦う方がずっと楽なのです。

 当時は3年間クラス替えなし、学級担任も変わらないのが普通で、初任の私はそのうちの二年半をウカウカと過ごしてしまいましたが、もしかしたらベテランの先生たちは最初から「受験という団体戦」に向けて、行事を通して周到に集団性を高めていたのかもしれません。いや、きっとそうです。
 
 

【良き受験生をつくる】

「中学高校は、つまるところ良き受験生をつくる場だ」
 そう言ったら抵抗があるでしょうか? もちろん「受験」の中には就職試験も入ります。

 私の言う「良き受験生」とは、簡単に言えば計画性があって目的追求力が高く、忍耐力と集中力、安定した情緒や思考力、判断力、決断力などをもった人間です。それだけだと人間性や社会性で不十分な面も出てきそうですが、受験を団体戦として戦う受験生はその点でも力をつけています。
 つまり目標は「良き受験生をつくる」こと、しかしその目的は人格の形成という意味です。

 団体戦を勝ち抜くためにはチームの統一性が必要です。学級旗をつくったり統一した色の鉢巻を用意したりといったことも大切かもしれません。
 そこに数人、茶髪やピアスをしたグループがいるのは、やはり困るのです。

(この稿、次回最終)