カイト・カフェ

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「子育ての絶望的な末路」〜オウム事件、7名の死刑執行

f:id:kite-cafe:20201126112158j:plain(ウィリアム・アドルフ・ブグロー 「アベルの死に対する嘆き」)

オウム事件、7名の死刑執行】

 以前にも申し上げましたが、社会的に大きな事件は金曜日に発表されるのが常で、したがって基本的に土日を休日にしてしまう私のブログの月曜日は、しばしば陳腐です。

 先週の「麻原彰晃以下7名の死刑執行」も、
オウム真理教による最初の殺人事件は平成元年2月の『男性信者殺害事件』だから、すべては平成の中に封じ込めようという司法の意思だろう」
と考えたことも、
「麻原の死刑は当然だとしても、そのマインド・コントロールによって手足となった弟子たちが同列というのはいかがなものか」
と思ったことも、金曜日の段階ならそこそこオリジナルな感じでしたが、三日も経つと似たような話は山ほど出てきて、いまさら言うほどでもないつまらない話になってしまいます。

 もっとも「平成のうちに」というのは私の場合かなり呪術的な印象の話で、江戸時代以前とは違って現行法では慶事・凶事のたびに年号を変えるわけにはいかないから、平成に起きた邪教事件は平成のうちに、「年号」という日本古来の壺に入れて、深く地中に埋め込んでしまえと言った意味です。

 今さら言ってもしょうがない三つ目の陳腐は「麻原を殺してしまえばその瞬間から神格化が始まる。それを避けるためにも、生かしてその惨めな人間の姿をさらすべきだった」というものですが、これには与しません。神格化の問題は別に対処すればいいのであって、オウム教団の生臭い匂いは、新年号に引き継いでいいものではないからです。

 それに麻原のような極悪人が税金を使ってのうのうと生き続けるのに、もっと小さな殺人事件の死刑囚が次々と執行されていくのはあまりにも不公平です。犯罪の規模も悪質さ桁違いだというのに、それ以上の刑がないというだけの理由で普通の死刑囚と同じ扱いを受けるのは、もうそれだけで厚遇みたいなものです。

 これは死刑制度の是非とは関係ない話です。制度がある以上、えん罪の可能性も同情の余地もまったくない麻原彰晃については、もっと早く粛々と執行すべきでした。「すべてを知っている麻原を何もしゃべらないまま死なせてしまったら真実が分からなくなる」という人もいますが、大丈夫。このさき何年生きてたって、ヤツは絶対にしゃべりません。

【オウムの親たち】

 今回死刑を執行された7人は早川紀代秀を除くと全員が私より年少です。しかし最若年の井上嘉浩でも48歳ですから私の子ども世代、というわけでもありません。それなのに「7人執行」のニュースを聞いたとき、最初に思ったのは親たちのことでした。

 逮捕時まで遡れば井上嘉浩は26歳で、今の私の息子アキュラとほぼ同じです。今回死刑を執行された弟子の中で最年長の早川は逮捕当時46歳でしたが、2番目に年長の遠藤誠一は36歳ですからこれも今の私から見れば息子であって不思議のない年齢と言えます。そんな計算が心のどこかにあったからでしょう。親たちは息子の処刑の知らせを、どんなふうに聞いたのだろうと、ふと思ったのです。

 いやそのずっと以前、、息子がオウムに丸ごと持って行かれたと知った時、そのオウムがとんでもない犯罪集団だと分かった時、そしてオウムの重大犯罪に息子が深く関与しているらしいと知った時、息子の逮捕の報を聞いた時、裁判で死刑の判決を受けた時、それらをどんな思いで聞いたのか、どう受け止めたのか、そういったことに思いが行ったのです。

【犯罪加害者の親】

 犯罪被害者の家族が手記を書くことはままありますが、加害者の家族が何かを発表するということはそれほど多くはありません。

 いま私の手元にあってすぐに参照できるのは、神戸連続児童殺傷事件の犯人両親が書いた『「少年A」この子を生んで……父と母悔恨の手記』、アメリカのシリアルキラー、ジェフリー・ダーマーの父親が書いた『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』、それからネット上で見られるコロンバイン高校銃乱射事件(アメリカで最初の高校銃乱射事件)の犯人母親による講演『息子はコロンバイン高校乱射犯――母として私の伝えたいこと』の三つだけです。
 特に「息子はコロンバイン〜」は、息子が死んだと聞かされたほぼ同じ瞬間に、殺人の被害者としてではなく、12名の生徒と1名の教師を射殺し24名の重軽傷者を出した加害者としての自殺だったことを知ったわけで、その時の母親の想いについて聞いてみたい気がします。しかしこの短い講演の中に、そんな話は出てきません。

 三つの著作に共通するのは、世間から突きつけられる三つの厳しい刃、「本当に気がつかなかったのか」「なぜ気がつかなかったのか」「きちんと育ててきたのか」を世間に先んじて自分に突きつけ、苦しむ姿だけです。答えが見つからないのです。  コロンバイン事件の母親はひとつの答えにたどり着いたように話しますが、それとてどこまで本気で信じているかは分かりません。  したがってこれらを読むことは、必ずしもオウムの親たちを推し量ることには繋がりません。

 またこの三作に共通することのひとつは、三人の子どもたちが小さなころからそこそこに「悪い子」だったといいうことです。そのために外部(学校の先生や医師、カウンセラー)の指導を受けています。
 後から考えれば重大な事件の萌芽でしたが、起きた時点では男の子にありがちな、他愛ないものとして見過ごされます。ここに問題回避のチャンスがあったのかなとも思うのですが、それは結果論で、どんな親でも見過ごしてしまったに違いない、ありふれた事件だったということもできます。
 ただしある意味でそれは救いで、どんな犯罪にも兆候があり、親は注意さえしていれば何とか発見し、対処することができるという可能性もないわけではありません。

 オウムの子たちは違います。彼らは小さなころから、基本的に「良い子」だったのです。良い子の中に何かを発見し、怖れ、対処するといったことが、私たちに可能でしょうか。

【子育ての絶望的な末路】

 今回死刑を執行されたオウムの幹部たちの、成育歴だとか成育環境だとかはほとんど読んだことがありません。しかし彼らの大部分は二十歳の段階では間違いなくトップエリートで、親は子育ての勝ち組の座をほぼ手中に収めていました。

 中学・高校のころはとんでもない成績で親を喜ばせ、一流の大学に進学して、実際にそうしたかどうかは分かりませんが、
「息子さんは大学生?」
と聞かれて、
「ええ京都府立の医科大です」
とか、
「筑波大で化学研究をしているみたいです」
とか、
「いえ、大学は卒業して、今は京大の大学院で研究を行っています」
とか――そう答える時、謙虚に、恥ずかしそうに言うか、誇らしく高らかに言うかは別にしても、悪い気はしない、少なくとも息子の大学について語るのに卑屈にはならずに済む、そうだったに違いありません。ここまで来たらあとは人並みの、いや人並み以上の就職をし、一流の妻をもらって一流の家庭を築くのを待つだけ、そういったところまで来ていました。
 それがある瞬間を境に、子どもの人生は上昇することをやめ、停滞し、気がつくと飛びぬけて重大な犯罪の実行者として、裁判で曝され、判決を受け、最後は死刑を執行される――。
 普通なら家庭人としての私たちの後半生は、穏やかで静かなものですが、彼らの苦悩と苦難はまさに子育ての終わったそこから始まったのです。

 「コロンバイン〜」の母親は、「最低の親」「最悪の親」と誹りを受け、自らも進んで背負いながら生き続けています。「親として、どこで失敗したのか、はっきりさせよう」ともがきながら。
   オウムの親たちもどこかで過ちを犯した失敗者です。まやかしの宗教に近づかない子どもを育てた親はたくさんいます。オウムから子を奪還することに成功した親も少なからずいました。彼らは全員この事件の「加害者の親」にならずに済んだ人たちです。

 しかしそうした人々の子育てとオウムの親の子育ての間に、どういう違いがあったのか――。親たちはこれまでも苦しんできましたが、これからも苦しみ続けるしかありません。生きている限り。

【気をつけて、しつかり頑張って――】

『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』の著者は、その長い著作の中で繰り返し、原因は何だったのか、自分の育て方のどこに問題があったのかと問いかけています。遺伝的なものはあるのか、まだ妻の腹の中にいたころ、妻は何か飲んではいけない薬を飲んだのではないか――。延々と考えた挙句、最後の最後にこう書き記します。
『ジェフの裁判が終わり、私たちの試練がはじまって何カ月もたつのに、私はいまだに絶えずそんな思いを反芻して、ときにはわが子の犯した行為に苦しめられている。ジェフのこと、父親として息子に与えた影響、つまり放任がよかったのか、もっと干渉したほうがよかったのかなど、いまだにまったくわからないままだ。
 父親であるということは、永遠に大きな謎であり、私のもうひとりの息子がいつの日か父親になるかもしれないことを考えると、彼にはつぎのようにしか言えないし、これから父親になろうとしている人たちにもつぎのように言うしかない。 「気をつけて、しつかり頑張ってほしい」と』

 それが結論かよと毒づきたくなるような終末ですが、それしかないのでしょう。

 私たちは十分に気をつけて、子どもをしっかりと見て、頑張らなくてはならない、それがすべてなのかもしれません。