カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「彼女に捧げる四暗刻(スーアンコウ)」~カラオケと麻雀、昔の学生・今の老人

 畑をやって、本を読んで、文章を書いて――、
 それで私の一日は終わる。
 冬は畑の代わりに樹木の剪定といった仕事もある。
 しかし畑も果樹もない都会の老人たちは、
 どうやって時を過ごしているのだろう?
 その答えの一部が分かった。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200709073321j:plain(「麻雀卓を囲んで麻雀を楽しむ人たち」フォトACより)

【半年ぶりの飲み会】

 一カ月おきに会っている仲間と、半年ぶりの飲み会をしてきました。

 基本的には奇数月の開催でそれぞれ月当番が決まっているのですが、1月の新年会だけは年当番が扱うことになっていて、今年の場合その年当番に自覚がなく、周囲も急かさなかったので実施が2月にずれ込んでしまったのです。そこにコロナ禍がかぶさって中止。3月、5月の例会もできず、ようやく今月になって実施ができたわけです。

 全員が参加すれば11名ですがたいていは5~6人しか集まらず、時には3人といったこともあります。高校時代の同級生が中心で、卒業して一緒に東京に行った仲間に同居の兄や弟が加わり、その友だちまで来るようになってと、そんな感じで続いているけっこう緩い関係です。その緩さと、集まれる者だけが集まればいいといったいい加減さが、50年も継続できた秘訣でしょう。

 緩いので半年ぶりの再会だというのに何の感慨もない。変化の少ない生活をしているのでこれといった話題もない。それなのに会話が途切れないのはやはり50年の妙というものでしょう。

「最近の若い連中(と言っても話題になっているのは40代~50代の後輩のこと)は、平気でベンツだのアウディだの、あるいはレクサスなんかに乗っている、あれってどういうこと?」
と一人が言えば、
「いやいやいや、いま日本中で“家”なんてものが余っているだろう? アイツら親の建てた家に住んでいてローンを背負っていない。住宅ローンがなければベンツやアウディは買えるぜ。フェラーリってわけにはいかんけどな」
と蘊蓄を語り、別の仲間が、
「そういや若いころは将来フェラーリを買って乗り回してと、そんな話をしていたよな」
 そこに私が割って入って、
フェラーリは無理でも国産のスポーツカーなら買えるだろう。オープンカー。夢だったじゃないか、買えよ、俺はダメだけど」
「どうしてオマエはダメなの?」
「髪が乱れる」
 私以外は全員ハゲなのでこういう会話が成り立ちます。

 

【カラオケと麻雀、昔の学生】

 次に出てきたのが麻雀とカラオケの話です。
「とにかくオレの周辺でも年寄りたちはみんなカラオケ、麻雀。ものすごくはやっているらしい」

 そう言えば北海道でできた新型コロナのクラスタのひとつは昼カラでした。真昼間から使えるカラオケ店、またはカラオケ設備のある喫茶店などのことです。利用者は昼間から何時間も入り浸って歌っていられる暇人たち、つまり老人です。

 考えてみればカラオケ装置が発明されたのが1970年代、カラオケボックスの登場は1980年代で、ブームをけん引したのは現在70歳前後になっている団塊の世代です。定年退職で暇になって、歌いに行かないはずがない。

 麻雀も、これは私たちおよび私たち世代以上の学生にとっては、流行というよりは一種のたしなみでした。ドストエフスキーサルトルを読んで、麻雀を打って政治を語るのが大学生――そう思い込んでいたのです。コンピュータゲームもスマホもない時代ですから日常に大して面白いこともなく、貧乏な学生にとって遊びと言えば屋外はパチンコ、屋内だと麻雀以外考えられなかったのも事実です。
 最近、賭けマージャンで検察を追われた黒川弘務さんも1957年生まれの63歳で完全にその世代です。

 ブームの火付け役の一人は作家の色川 武大(阿佐田 哲也、井上 志摩夫、雀風子)で、1965年~75年に『麻雀放浪記』をヒットさせると、伝説の深夜番組「11PM」の麻雀コーナーでも腕を振るって麻雀を世間に知らしめ、日陰の遊びから日向へと引きずり出したのです。
 ブームが去ったのはおそらく室内遊びとしてコンピュータゲームが幅を利かせるようになったからでしょう。「ファミコン」と呼ばれるニンテンドーの「ファミリーコンピューター」が発売されたのが1983年。90年代には麻雀をする学生もかなり少なくなったと思われます。
 ただしそれまでの学生は、昼夜をたがわず牌を打ち続けたものでした。

 

【彼女に捧げる四暗刻(スーアンコー)】

 私が自分自身について印象深く覚えているのは、南の島へ1週間も海水浴に行ったというのに、島での時間の大部分を麻雀に費やしたことです。せっかく来たのですから泳ぎにも行きたいのに、仲間に言わせると、
「目の前に海があるのになんで泳がにゃならんの? いつでもできるじゃないか」

 いつでもできるのは麻雀も同じだと思うのですが、とにかく起きたら麻雀を打つ、朝食を食べたら麻雀を打つ、海へ行って少し泳いで帰って麻雀を打つ。夕食を食べて浜へナンパに出て、女の子とビヤガーデンでビールを飲んで帰って麻雀を打つ――そんな生活を1週間も続けたのです。行きも帰りも揺れる船の中でも打ち続けました。

 そんなにやったのだからさぞかし強くなったと思われるかもしれませんが、私は最後まで弱かった。なかなか勝つことができない。
 賭け事は全部ダメで、パチンコは『悪魔の仕掛けるビギナーズラック』で最初の一カ月間、勝ちに勝ちまくってその勝ち分を一週間で吐き出し、以後10年間は負け続け。最後は誘われてどうしてもつき合わなくてはならないときにだけ、千円札を握りしめて「これだけ負けたらやめる」と決めて取り掛かることにしました。そして負ける。競馬はいつも「鼻毛の差」の負けでした。

 そんなに弱い癖になぜか麻雀牌のセットを持っていて、おかげで私のアパートがたまり場になる。やがて私の部屋で役満が出るとそれを記録するようになります。

 当時はB4用紙が一般的でしたのでそれを縦に二つ折りにして、
「〇月〇日 午前2時15分。〇子(つき合っている女の子の名前)に捧げる四暗刻(スーアンコー) 〇〇〇〇(達成者の名前)」
と書いて鴨居に並べるのです。

 おかげで私の部屋は好きな女の子を連れて来られない部屋になってしまいました。私の掲示もあって、そこには達成当時につき合っていた女の子の名前が書いてあったからです。
 仲間のKはカードに書いた女の子の名前が毎回違うのに平気です。自分の部屋でないのは有利だな、と変にひがんだものでした。

(この稿、続く)