カイト・カフェ

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「最も危険な国に生き続けることの安全」~わずか半世紀前の日本は、今のコロナ事態以上に危険な国だった

 私が子どもだったわずか半世紀前の日本を思い出したら、
 結核にポリオに寄生虫――日本はかなり危険な国だった。
 そんな国に生き続けることが、
 結局、安全に生きることにつながっているのかもしれない。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200518071809j:plain(「茅葺屋根のある光景」フォトACより)

結核:かつては日本の国民病】

 もう見ないと言っていたYahooニュースを見ていたら、昭和30年(1955年)、日本で結核のために亡くなった人が4万6000人余り、人口10万人あたり52.3人もいたという記事がありました。(2020.05.15 Yahooニュース「BCGワクチン接種の有無でコロナ死亡率に差があるというけれど・・・」

 これがどのくらいすごい数字かというと、今回の新型コロナ禍で最悪の被害を受けたと言われる国のひとつ、イタリアの死者が3万1763人、10万人当たりの死亡者は52.1人(2020.05.15時点)でそれを上回っているのです。

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 結核は、当時子どもだった私でもよく耳にした病気です。父の弟がこれで亡くなったことは聞かされていましたし、ローマ字も習わないうちからBCGという予防接種も知っていました。しかしここまで蔓延した伝染病だとは思っていなかったのです。
 昭和30年は東京タワーができるわずか3年前ですから、まさに映画「Always三丁目の夕日」に描かれた時代ですが、なのに大騒ぎしたという記憶がありません。

 確かに新型コロナのように爆発的な感染拡大というものがあったわけではないし、「このまま何もしなければ死者が42万人」などと脅されたわけでもありません。「結核は日本の国民病」という言い方があったように、諸外国で猛威を振るっていたといった事情もなかったのでしょう。外出自粛も店舗の閉鎖もありませんでした。
 みんな落ち着いていました。ストレプトマイシンという特効薬が普及しつつあったことも、恐怖感を和らげる作用があったのかもしれません。

 しかし“結核”は現実に存在し、調べてみると「国民病」の名にふさわしく、この病気で亡くなった著名人は、私でさえ知っている超有名人だけでも、次のようになります(アイウエオ順)。
 青木繁有栖川宮威仁親王石川啄木井上毅沖田総司織田作之助梶井基次郎陸羯南国木田独歩、小村壽太郎、島木健作高杉晋作高村光太郎高村智恵子高山樗牛、瀧廉太郎、武田信玄竹久夢二秩父宮雍仁親王、桃中軒雲右衛門、長塚節中原中也新美南吉、林文雄、樋口一葉二葉亭四迷北条民雄堀辰雄正岡子規松岡洋右陸奥宗光

 外国人は私の無知もあって、フレデリック・ショパンエミリー・ブロンテ、ドク・ホリデイ、ジョージ・オーウェルフランツ・カフカくらいしか上げられませんが、小説や映画・アニメの登場人物だと、小説「風立ちぬ」の節子、「不如帰(ホトトギス)」の浪子、「田舎教師」の林清三、「永訣の朝」の宮澤とし、「リツ子・その死」のリツ子、「魔の山」のハンス・カストルプ、「レ・ミゼラブル」のコゼットの母親のフォンティーヌ、映画「酔いどれ天使」の松永、アニメ「となりのトトロ」のお母さん。

 中でも宮沢賢治の「永訣の朝」に出てくる妹の宮澤としについては特別な思いがありますし(2019/9/27「『永訣の朝』と宮沢賢治三昧」~記念館と童話村)、正岡子規が22歳で結核にかかり、吐血したため俳号を「子規(ホトトギスの意)」としたという話には泣かされます。ホトトギスは口の中が赤く、鋭い鳴き声から「鳴いて血を吐く」とも言われているのだそうです。子規の出した俳句雑誌も「ホトトギス」といいます。

 もっとも「サナトリウム(狭義では結核療養所)」という言葉も大人になって小説の中で知ったくらいですから、客観的には比較的身近にあったものの、結核は子どもだった私を怯えさせるほどには近かったわけでもないようです。怖かったのはむしろポリオでした。

 

【ポリオはほんとうに怖かった】

 ポリオ(急性灰白髄炎)は「小児麻痺」とも呼ばれ、日本では1960年に北海道を中心に大流行しました。5歳以下の子どもがかかりやすいウイルス性の病気で、高熱と胃腸炎のような症状のあと、多くは回復しますが一部で下半身に永続的なマヒを残します。
 1960年の大流行の際は私も小学校に上がっていて物心もついていましたから、毎日、新聞やラジオを通して流れてくる情報に怯えたという面もあるのですが、それよりも実際に麻痺のあるお子さんを見知っていたということの方が大きかったのかもしれません。

 今から考えるとポリオではなく脳性麻痺だったのかもしれませんが、私の通っていた小学校の高学年の先生のお嬢さんが小児麻痺だと言われていて、もう中学生くらいだったと思うのですが、父親である“先生”はその子を銭湯の男湯に連れてきたのです。まだ一般家庭に風呂などない時代でした。おそらく教員住宅住まいの“先生”には他に打つ手がなかったのでしょう。
 しかしほとんど大人の女性なのに、父親に抱き抱えられたままで男湯に入らなければならないということに、私は心底、怯えました。毎晩、怖くて眠れないほどでした。

 1961年、政府は緊急措置として当時のソ連から大量の生ワクチンを輸入し、学校を通して児童に摂取させました。甘く味付けされた生ワクチンを、スプーンで口の中に流し込むのです。その甘さと、「ああこれで小児麻痺にならずに済む」という思いのために、この時の体験は今も記憶の中に残っています。

 1960年の大流行もおかげで収まり、いまではポリオの名前も小児麻痺という言葉も忘れ去られようとしています。
 予防接種は生ワクチンに代わって不活性のワクチンが使われるようになり、今もジフテリア・ワクチンなどととともに4種混合として接種されています。ポリオは現在、事実上、日本国内では根絶されたとされています。

 

【もうひとつ怯えたこと】

 もうひとつ、子どもだったころの私を怯えさせたのは、カイチュウやギョウチュウといった腹の中に巣くう寄生虫です。中でも担任の先生が掛け軸の絵で説明してくれたサナダムシは「長いものだと10mにもなる」とのことで、そんなものが自分の中を這い回っていると想像しただけで気絶しそうでした。
 そんなものがどうやって体の中に入ってくるのかというと、もちろん寝ている間に口や肛門からというわけではなく、卵のかたちで食事とともに摂取されるのです。

 当時、日本中の畑は人間の糞尿を肥料としていました。畑の隅に「野ツボ」と呼ばれる糞尿の集積池を作って、そこで十分に熟成させた人糞尿は春になると畑全体にまかれたのです。ですからそのころの田舎というのは全体に悪臭に満ち満ちていて、私たちは「畑の香水」などと呼んでいましたが、とにかく臭いところでした。
 その糞尿の中に、人間の体内で寄生虫が産んだ大量の卵が入っていたわけで、寄生虫にしてみれば自分が産んだ卵が畑で野菜に付着して再びどこかに運ばれ、人間の口に入るという素晴らしい循環があったのです。

 そうなると人間の側からすれば体内に入れないための水際作戦はとうぜん「卵を洗い落とす」ということになります。私は忘れないのですが家庭科(私は男女共修の第一期生です)の調理の1時間目は、「キャベツを1枚1枚はがして、薄い中性洗剤の入った洗い桶で10秒間漬け、それから流水で洗い流す」というものでした。洗剤で野菜をあらうなど、今では全く想像もできません。

 しかしそれでも卵をお腹に入れてしまう子もいて、検便の際に卵が発見された子は虫下しの薬を飲むことになります。飲むとしばらく景色が黄色に見えると言われた伝説の薬で、私は飲んだことがあるように記憶していたのですが、黄色い風景にはまるで覚えがなく、もしかしたら飲んでいないのかもしれません。

 これについても「日本人は寄生虫のために絶滅させられるかもしれない」とまで言われたのに、人糞に代わる牛糞や鶏糞の利用、化学肥料の発達によっていつの間にか話題にもならなくなりました。「田舎の香水」の匂わなくなった畑は、昔よりずっと行きやすいところになりました。

 

【最も危険な国に生き続ける安全】

 結核、ポリオ、寄生虫――どれを取って考えても、わずか半世紀ほど前の日本はかなり危険な国だったみたいです。

 日本人の並外れた衛生感覚とか言っていますが、高温多湿の国土でしかも稲作のためにわざわざ低湿地近くに住まなくてはならなかった日本人は、常に伝染病や寄生虫の危険に晒されていたのです。いつも衛生に心を配っていなければ、すぐに死に絶えてしまう。
 18世紀の江戸の町では夏場、男たちはほとんどフンドシひとつで働いていたりしました。アスファルト舗装などありませんから、1日働けば汗まみれ土まみれです。別に清潔好きでなくても毎日、風呂に入らないわけにはいきません。

 衛生に努めるのは私たちの祖先にとっては必然でした。そしてそれが今のコロナ禍で役に立っているのです。そう考えると危険な国に住み続けること自体が安全という逆理にたどり着きます。そういうものなのでしょう。