隣り百姓の末裔

 十数年前に家を購入した際、隣にある1アールほど畑も買い取りました。線路に面した袋小路の三角形で、売り物にならないから安く買えということで購入したのです。

 1アールというのは農家にとって大した広さではありませんが、素人が一人で経営するには広すぎる土地です。おかげで毎年、ゴールデンウィークは遊びにも出ず、畑三昧の日々となっています。おまけに今年は、土日に天気が悪かったり仕事が入ったりで庭の草取りもできず、そちらを済ませてからの畑なのでずいぶんと仕事が遅れてしまいました。

 みどりの日の朝にようやく整い、そこで苗を買いに出かけようとしたのですが、急に思いついて近所の畑をぐるっと見回ったのです。すると驚いたことにどの畑も私と同じ程度にしか仕事が進んでいません。過去十数年なかったことです。

 そこで近くにいたおじさんに聞いてみると、

「今年は霜が遅かったから・・・」

とのこと。まだ心配で苗を植えきれずにいるのです。あわてて買いに行かなくて本当に良かったと思いました。

 

 隣りの畑の様子を見ながらあと追いで畑仕事をするようなやり方を「隣り百姓(びゃくしょう)」と言うのだそうです。農耕民族は他人を出し抜くということができません。周りに合わせないと仕事にならないのです。

 それに対して、狩猟民族というのは他者に先んじることが重要な才覚、という場合が少なくありません。あとで追いかけても獲物に逃げられたり他人に取りつくされたりといったことになりかねないのです。

 さてそうなると、周囲を常にうかがいながら周囲に合わせて生きる「隣り百姓」の伝統を持つ私たちにとって、「自主性」というのはどういうものなのかということが問題になります。欧米のように、「(敵は)千万人といえども我行かん」というわけにはいかないのです。

 簡単に言ってしまうと、私たちの場合、周囲と調和しない自主性というものはないのかもしれない、ということです。

 今日考えたことは、そういうことです。