イギリスのEU離脱もまったく先が見えなくなった
「イギリス人は歩きながら考える」と
子どものころに学んだことは決して忘れない
その偉大な国民はどこへ行ってしまったのか
という話を書こうと思った・・・。
【思い出せないエスニック・ジョーク】
イギリスのEU離脱が話題になってからずっと気になっているひとつの言葉があります。
「フランス人は歩いてから考える。ドイツ人は考えてから歩く。イギリス人は歩きながら考える」
というものです。
私の確かな記憶によると(その“確かな記憶”が最近相当に怪しいのですが)、私自身が中学校のときの国語の教科書に載っていたもので、その部分だけが鮮明なのに結論がどこにあったのかどうしても思い出せないのです。
一昔前だと、こういうことを確認するのは至難の業だったのですが、今はネット検索で簡単に出てきます。
調べるとまず出てくるのが、
《イギリス人》は歩きながら考える
《フランス人》は考え終わると走り出す
《スペイン人》は走り終わってから考える
《ドイツ人》はみんなが走り始めると走り出す
《イタリヤ人》は情熱で走り出す
《ロシア人》はウオッカのために走り出す
目的地に一番につくのは 走るために走る《日本人》
こういった民族性を前提としたジョークをエスニック・ジョークというのだそうですが、私の記憶とはだいぶ違います。そもそも日本人が出て来たら忘れるはずがないのです。
次いで出てくるのは、スペインの外交官マドリヤーガという人の話です。国際連盟事務局長まで務めた人らしいのですが、その著書「祖国を思う名著」の中に次のような形で出てくるらしいのです。
「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える。」
私の“確かな記憶”は、
「スペインなんてなかったぞ!」
と強く叫ぶのですが、このマドリヤーガさんの言葉を日本に紹介したのが、朝日新聞論説主幹であった笠信太郎氏の『ものの見方について』という本で、昭和25年当時100万部を売り上げる大ベストセラーだったといいます。
そこまで有名な話だとすると、私の記憶もだいぶ怪しくなってきます。知らず知らずのうちにどこかで感化された可能性があるからです。
マドリヤーガ氏はスペイン人ですからやはりドイツではなく、スペインだったのかもしれません。
【“確かな記憶”はほぼ確かだったが・・・】
「ものの見方について」は絶版になっていて直接参照できないのでネットで探すとやはりあって、見ていくと、
「本書はこうした戦後の思想状況に対して、当時の日本人に対し、自分の考えを作り上げるためのものの考え方、見方を提示することを目指して書かれたものである。そして、著者は、ヨーロッパのイギリス、ドイツ、フランスの三国のそれぞれのものの考え方、ものの見方をモデル化して、解説している」(■ 名著への旅:笠信太郎「ものの見方について」 | 下北の春のブログ)。
とあります。
ほら、やっぱりイギリス・ドイツ・フランスじゃないか。スペインはどういう出方をするんだ? ということになります。
ここで調査は一頓挫。
しかし「ものの見方について」がイギリス・フランス・ドイツについて語っていたとすると私の“確かな記憶”にある「中学校の国語の教科書に載っていた」もあながち間違いではないのかもしれません。
これを証明できればかなりの手柄になります。
なにしろネット上では「たしか学校で習った」とか「『ものの見方について』は絶対に読んでいないので、おそらく先生が雑談で話したのだろう」とかあやふやな情報は山ほどあっても、「これだ」といった決め手がないからです。
そこで再々度、といった感じで調査を始めたところ、ようやく私の疑問にほぼ応えてくれるページに巡り合います。
何度も見たはずの「マドリヤーガ」の検索結果の3ページ目にありました。3ページまでなかなか進んでいなかったのです。
そこにあったのが、
kite-cafe.hatenablog.com
なんと私自身のブログです。
え?
わずか2年前(2017)の3月、ついこの間のことです。
ブレグジットを決めたイギリスの国民投票は前年(2016)の6月23日でしたから、以来ずっと気になっていたのを翌年3月にようやく調べた、そんな感じなのでしょう。
ネット検索というのは時に運に左右されることがあります。今回、発見できなかったことが2年前はうまく行ったようで、そのときはきちんと教科書までたどり着いています。
ぜひ読んでみてください。ちゃんと教科書に載ってました。
50年前の“確かな記憶”は実際に「確かな記憶」だったのです。しかしたった2年前の記憶はずっぽりと抜け落ちていました。さらにご丁寧なことに、「歩きながら考える」②の最後の一行は、今日を見越したかのような次の文でした。
昨日のことは忘れていても50年前の記憶はしっかりしている、それが私たち老人に端的な特徴です。
【これが「歩きながら考える」イギリス人のやることか。】
一昨日、イギリス議会はまたまたメイ首相がEUとまとめた離脱協定を大差で否決しました。
昨日は「このまま合意なしの離脱をする」という決議案を、「今回ばかりでなく永久に」という修正までつけて否決してしまいました。とにかくどんなことがあっても合意にこぎつけるということです。もちろんやるのは議員ではなくメイ首相です
今朝、私の目覚めるころには、「EUに離脱延期を求める」という決議案が可決されているはずです。2年半やってダメだったことを2~3か月延期したところで埒の開く話ではないと思うのですが――。
残留派はこのままいつまでも延期が続けばいいくらいに思っているでしょう。しかし離脱派はどう考えているのか。とにかくテレーザ・メイ! オレが納得できるように何とかまとめて来い! ということでしょうか?
あれもイヤ、これもイヤ、オレが望むように、オマエがやれ!
これが「歩きながら考える」イギリス人のやることか!
かつての日本が手本とすべきと言われた偉大な国民のやることか!
・・・それが今日のブログの主題となるはずでした。
笠信太郎の「ものの見方について」には“歩きながら考える”について、次のような記述があるそうです。
歩きながら考えるとなると第一に抽象的ななことは考えられないから,足が地に着いた考え方ができる.第二に歩くこと(実践)と考えること(思索)がバラバラでなく,平行して進む.第三に一箇所に立ち止まらず,つねに考え続けることになる
さらに別のところでは、
歩きながら考えるということは、実行と思想が離ればなれにならず、平行しているということである。
徒に観念的抽象的な問題に走らず、身近で平易な問題を複数の視点から考察してコモンセンスに到達させるというのが、イギリス人の思考様式である。一つのもの、一つの事象を、ある固定した一定の観点からばかりみて説明しようとはしない。あたかも富士山を、乙女峠から、山中湖畔から、田子の浦からとさまざまな角度から眺めると、それぞれ違った富士山が見えるように、イギリス人はいろいろ違った立場から物事を考察してゆく。
こうした見方の結果、精神のゆとりが生じ、「寛容」(トレランス)の精神が出てくる。
話し合いによって物事を決めるということは、社会が「わたし」と「あなた」から成り立っているということを認めることである。「わたし」の考えと「あなた」の考えとを同時に包含した考え、言い換えると、一面的ではない多面的な、割り切ることのむつかしい考えをもとうとするのである。
一定の思想が人間を支配するのではなく、人間が思想を支えているから、その人間は、いろいろ変化し発展する現実やいろいろの学説の中から、それぞれの重みを見分けて自分の思想を作り上げてゆく。ここに人間の自由があり、ほんとうの意味での思想の自由がある。
この思想の自由があって、はじめてイギリス人のいわゆる「妥協」ができるということになる。妥協というものについて、日本人やドイツ人、フランス人においては、何か節操のない態度、自分の敗北を意味するようなふしがあるが、イギリスではそうではなく、より積極的な意味づけをされている。「わたし」と「あなた」が妥協できるということは、それによって自分が敗れるのではなく、相手を満足させ、相手との調和を取り、自分も相手も一歩前進することができるということを意味するのである。
笠信太郎がイギリス人の本質を見誤ったのか、70年余りの間にすっかり品性を失って別の民族になってしまったのか、
ブレグジットの混乱を例に、今日はそれを堂々と論じようと思っていたのですが、とっぱなで2年前の自分の調査を全く忘れていたことに傷ついて、一歩も前に進めなくなってしまいました。
だから今日はやめます。
メイちゃんがんばれ!