以前、
という記事を書いたところ
最近になって当時在校生だったという方から連絡をいただいた。
あの事件のあと、生徒指導は多少緩くなったものの
結局、本質的な部分では何も変わらなかったというお話
さもありなんと思う 日本全国そうだったのだから
というお話。
【神戸高塚高校の校門圧死事件が残したもう一つの問題】
私は1月23日の記事で、「この事件を機に、教師の暴力が絶対悪として排され、以後、どんな理由があっても殴ってはいけない、殴ったら一切理由は問わずに教師を罰するという流れができた」
そんなことを書きました。それが事件の残した一つの側面です。
しかしそれよりも大きな影響があったのは、「生徒を殴る」という非日常的な話ではなく、「校則の全面的な見直し」という日常的な部分でした。
「見直し」といっても削減が前提で、とにかく一項目でも多く減らした方が偉い、教育的配慮の行き届いた学校だ、勇気ある校長だといった雰囲気で、バッサバッサと音のするような削減が行われたのです。
象徴的だったのは頭髪の自由化で、私のところは田舎でしたので当時であっても「中学に入ったら丸坊主」でした。それが地域の先進的な学校で見直され、「中学生らしい髪型」という抽象的な前提を付けて“自由化”されると他の中学校も追従せざるを得なくなったのです。
はっきり言って生徒が丸坊主か長髪かといったことは本質的な問題ではありません。どうでもいいことです。
丸坊主を強制するのは基本的人権にかかわるという人もいますが、だったら単一の服装しか許さない制服や単一のメニューしか用意しない給食も問題でしょう。学校も選べない担任も選べない、勉強したい教科だけを選択するということもできない、そんな状態で髪だけを問題とするのは愚の骨頂です。しかし “どうでもいいこと”ですから、私も敢えて自由化に反対はしません。ただしそのために生徒指導は驚くほど難しくなったのです。
【頭髪自由化のもたらしたもの】
それまでは「お前、床屋にいつ行ったの? え? 2カ月前? それでいいと思っているの? 明日にでもすぐ行って刈ってこい」で済んでいたものを、あるいはいざとなれば「分かった、俺が刈ってやる」と私物のバリカンを持ち出してにわか床屋で丸坊主にしてしまったものを、そうはいかなくなりました。
*ちなみに“にわか床屋”が日常化してしまった結果、床屋に行くふりをして親から金をもらい、私のところで刈ってもらって床屋代は自分の懐に、といった猛者もでてきて、これには呆れました。
長髪を許すことで新たに持ち上がったのは「何が中学生らしい髪型か」といった不毛な論争と茶髪・金髪との闘い、そして街頭指導です。
すぐに中学生と分かる丸坊主の時代には、生徒はゲームセンターにも繁華街にも、あるいはスナックやクラブといった場所にも出入りしませんでした。すぐにわかりますし、面倒を嫌う店側から排除されてもいたのです。
しかし“頭髪の自由化”とともに徘徊の自由化も進み、一部の生徒は結界を侵して危険な場所に出入りするようになります。
彼らが“あちら側”に行き来する以上、私たちも様子を見に行かなくてはなりません。生徒の自由は、しばしば教師の不自由を生み出すのです。
本当は頭髪の自由化の際、“以後、生徒指導のハードルが上がっても学校は対処しない”と宣言しておけばよかったのです(できっこないけど)。あるいは来るべき混乱を予定して教員の配置を増やしておけばよかったのです。
しかし両方ともせずに放置したため、一部の学校では大変なことになりました。
最初の方で紹介した「校則の削減を大胆に行った“地域の先進校”」は生徒数千名を越える大校でしたが、荒れて収拾がつかなくなってしまったのです。
【管理しないと成り立たない学校がある】
中学校も生徒数500を越えると教師の方も全員を把握できなくなります。街なかで見かけても、自分の学校の生徒かどうか確証が持てなくなります。そこで声をかけそこないます。
あるいは校内で、気にかけておかなければならない生徒とそうでない生徒の区別があいまいになります。そのために心配な子の不安な動きをしばしば見落としたりします。
そうした細かな欠落が、全体としては大きな失態につながるのです。
「砂漠の砂は強く握れ」
と言われるように、特にマンモス校では管理主義的な手法を多用しないと様々なことを見落とします。名札を徹底させるとか、頭髪の規制を厳しくするとか、目に見える持ち物の制限をするとかです。
いまお話ししている“荒れてしまった大校”の場合は、体育館への入場練習で学校を立て直そうとしました。千名を越える学校ではよほど上手くやらないと、全校集会に生徒をそろえるだけでも10分、20分はすぐにかかってしまうからです。それを丸半日かかって練習する。できるまで繰り返し練習する。
すると大部分の子たちは周囲に合わせて静かに入場できるようになるのですが、それでも数パーセントの子はきちんと入場できない。列を乱したり遅れたり、わざとおしゃべりをしたりする――その子たちが心配してやらなければならない子たちです。
教職員がすべて見ている場で起こることなので、自然と、全員でその子たちを心配してやる体制が出来上がります。それが真の目的です。
【みんなを自由にしようとすれば誰も自由でなくなる】
管理主義、管理教育と悪く言われますが「みんなを自由にしようとすれば誰も自由でなくなる」は鉄則です。
封建主義の江戸時代と自由な戦国時代の二つに一つを選ばなければならないとしたら庶民は前者を選ばざるを得ないでしょう。独裁の国と内戦の国の二つしか選べないシリアは、今ふたたび独裁に戻ろうとしています。
もちろん成熟した市民社会ではある程度自由にしておいても問題は起きませんが、そうでないと自由は危険な概念です。
学校から管理主義がなくならないのも同じで、子どもたちが成熟した児童生徒として学校生活を送るようになれば管理もいらないのですがそうはなりません。成熟していないから彼らは「子ども」と呼ばれ、教育を必要としているからです。
しかしそれにもかかわらず、“学校の自由化”は常に内外から要請されます。
そして今、学校は重要な点で新たな自由を導入させられようとしているのです。
(この項、続く)