カイト・カフェ

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「ブルータス、オマエもか。憑依と表意」〜チコちゃんと勝負する2

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  私が知っていた「なぜ鏡は左右逆に映るのか」の答えは「(目は、自分が捉えた映像を網膜に上下左右すべて逆に焼き付けているが)それが一番便利なので、脳は映像をそのように書き換える」でした。しかしチコちゃんの答えは少し違っていて、こんなふうなのです。 「人それぞれのとらえ方が違うため、分からない」

 今回、最も驚いたのは、その「人それぞれのとらえ方が違う」でした。

【ブルータス、オマエもか】

「鏡に向かって右手を上げたとき、鏡の中のあなたはどちらの手を上げていますか?」
 この問いに対する答えが「右」である可能性など、私は一瞬たりとも考えたことがありませんでした。こちらが右手で鏡の中の人物も右手なら、そもそも「なぜ鏡は左右逆に映るのか」という設問も成り立ちません。

 ところが番組の街頭インタビューに答えた42人中、実際に鏡を見ながらの質問なのに「右」と答えた人がなんと22人もいたのです。私のように「左」と考える方が少数派です。
 42人では調査対象としてあまりにも少なくあてになる数字とは言えませんが、番組のデュレクターによると“統計的に3割から4割の人が右手を上げると鏡の中の自分も「右手」上げると答える”のだそうです。
 目からウロコが落ちるのではなく、目にウロコが貼りついてしまうような話です。

 そこで慌てて2階で仕事をしていた妻を呼び寄せ、姿見の前に立たせて右手を上げさせます。
「キミ、今どちらの手を上げている?」
「右手を上げろって言ったでしょ?」
「だからどちらの手を上げているの?」
「右でしょ」
「そうだね、ところで、それじゃあ鏡の中のキミはどちらの手を上げている?」
「右に決まっているじゃない、なに言ってるのよ」
 小ばかにしたような、仕事の邪魔をされて怒っているような表情で妻はそのまま2階に戻ってしまいました。
 信じられないような人は、私の身近にもいたのです。

【鏡問題の小難しい話】

 番組はさらに訳の分からない話をします。
 左右というのは前と後ろ、そして上と下の二つの条件がそろって初めて決まると言いました。鏡の中は、こちら側の世界と比べて縦の方向は同じ、横の方向はこれも同じ。実は前と後ろが逆になっています。左右を決める条件のひとつが変わってしまったので、左右も逆になったように見え、リンゴを持つ右手を左手だと思ってしまうのです。
 とりあえず何を言っているのか分かりません。

 これは 2011/7/4「逆さめがねの世界」 - エデュズ・カフェでPVC3TAROさんという方がコメント欄に書いてくださった、
「左右も、上下も反転していない。反転しているのは、前後である」(左右=鏡の面に平行でかつ水平方向、上下=同じく鉛直方向、前後=鏡の面に垂直な方向)というのが私の認識です」
と同じだと思うのですが、私にとって“理屈で分かって感覚的にも理解できるに、どうも腑に落ちない”妙な話です。
 要するに「鏡は前後を入れ替える(反転させる)」というのがぴんと来ていないのでしょう。数学が得意な方には私の“分からなさ”こそ分からないのかもしれませんが。

 しかし、
「左右を決める条件のひとつが変わってしまったので、左右も逆になったように見え、リンゴを持つ右手を左手だと思ってしまうのです」
が必ずしも正しくないのは分かります。なぜならNHKの街頭インタビューでも鏡に映った右手を左手と思う人は半分もいないのですから。
「リンゴを持つ右手を左手だと思ってしまうのです」
はすべての人に起こることではありません。

【バックミラーマジック】

 鏡の左右問題の厄介な話はさらに続きます。
 ところがです。これがどんなときにでも当てはまるのなら何の問題もないのですが、当てはまらない場合もあるようなのです。
 例えば車のバックミラー。運転している気持ちで見てください。
 後ろの車が右にウインカーを出して右側に行ったのを見て、左側に行ったとは思いませんよね。左右が逆に映るならあのウィンカーは左ウィンカーに見えるはずなのに。  このようにシチュエーションによって左右を逆だと思ったり思わなかったりするので、心理学的には誰もが納得する説明ができないのです。

 そして番組の最終的な結論、
「なぜ鏡は左右逆に映るのかは、人それぞれのとらえ方が違うため、分からない」

 私はショックでした。
 妻も含め、右手を上げたとき鏡の中の自分も右手を上げていると思う人があんなにたくさんいたことも衝撃でしたが、左右が入れ替わると信じ切っていた私がバックミラーの中の車については左右入れ替わらない判断(右ウインカーは右)をしていたことにも衝撃を受けました。
 その上で総まとめの答えが「分からない」では身も蓋もないではないですか。

 私はしばらく考え込み、やがて“これが答えじゃないのかな”と思われる事実にたどり着きます。ワガママで身勝手な妻のお陰です。

【憑依と表意】

 要するに私が右手を上げた時、鏡の中の人物が左手を上げていると感じるのは、その瞬間に自分自身の気持ちが鏡の中の人物に乗り移ってしまっているからなのです。鏡の中の人物にとって左手だから「左」と答えているのです。

 ところが憑依せず、自分をしっかりと保ち、できるなら鏡の枠も意識して「鏡の中の人物が上げているのは右の手・左の手?」と問えば答えは自ずと「右」になります。自分も右手を上げていますし鏡の中の人物は鏡面の右枠に近い方の手を上げているのですから。
 鏡のこちら側にいる自分の意を表せば(表意)、そういうことになります。

 バックミラーの例で言えば、私は瞬間的に後ろの車のドライバーに憑依する、すると難なく右ウインカーを出して右に移動していく自分になれます。もちろん妻にとって「自分の右」は「すべての右」ですからバックミラーは問題になりません。

 ようやく結論が出ました。
 目のレンズは、捉えた映像を上下左右すべて逆にして焼き付けているが、そのままを意識したのでは生活できないので脳が解釈し、必要に応じて上下や左右を反転させる。
 上下は必ず反転させて足が下に来るようにしないと生活できないが、左右はそこまでの制約を受けないため、その都度、必要に応じて解釈される。だから人それぞれのとらえ方が違ってくる。
 たぶんそれでよしです。

 右手を上げた時、鏡の中の自分も右手を上げていると思うような人には相手の身になって考えることのできない自己チューが多い――かどうかは、改めて考えてみたいと思います。

(この稿、終了)