罪と罰の非対称

 昔勤めていた学校の近くでワラ小屋のワラが燃えるという事件があり、どうも小学生の仕業ではないかということになって調べたことがあります。

 犯人はすぐに割れて担任の指導、保護者への通知、校長への謝罪という手順を踏んでようやくワラ小屋の持ち主への謝罪までこぎつけました。

 二人の“犯人少年”とふたりの保護者、二人の担任と生活指導係の私というけっこうな人数で出かけたのですが、被害のお宅の玄関に入って、私の方から事情を話し、さてお詫びの言葉という段になったらいきなり一人の子の父親が土下座して「申し訳ありません!」と叫んだのです。

 もう一人の児童の母親も私たちも、びっくりして一緒に土下座すべきかどうかオロオロしているうちに、被害者の方があわててタタキまで下りてきてそのお父さんを立たせ、なんとか事なきを得ました。ほんとうに驚いた瞬間でした。

 あとから聞けば、地域の消防団の責任ある立場の人だったということもあります。しかし火遊びによってワラが燃え上がるといった事態の、重さに対する認識が私たちとその父親とは違っていて、おそらくその父親の方が正しかったということなのでしょう。

 そういう思いで改めて現場を見ると、ワラ小屋の上には大きな樹木が枯れ枝を伸ばしていて、あれに火がついたらほんとうに大変なことだったろうなと思うような場所でした。

 さて私たちには「このくらいの罪を犯したたら、あのくらいの罰にあたるだろな」といった無意識の目安があります。これくらいなら大したことはないとか、ここまでやったらまずいだろうといった自然の目算です。通常はそれでだいたい当たっているのですが、その罪と罰の対応が日常の感覚とずれている場合もあります。放火はその代表です。刑法に次のようにあります。

 第108条(現住建造物等放火)放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

 注目すべきは刑法ではよく見られる「よって人を死亡させた者は」の文がないことです。つまり理屈上は一人の死者も出なくても、放火犯は死刑になる可能性があるのです。

 一人の死者も出ないのに死刑になるというケースは、他には内乱罪だの外患誘致罪だのおよそ素人にできそうにない犯罪を除くと、放火と同類の(現住建造物等浸害)「第119条  出水させて、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車又は鉱坑を浸害した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」だけです。

 重いですよね。

 いきなり死刑とまで行かなくてもこうした例は他にもあります。たとえば、

 線路への置き石は、その結果列車が脱線転覆そして死者が出れば死刑。

 ポスターへのいたずらは普通なら器物破損、しかし選挙ポスターだと選挙妨害になりただでは済みません。

 用水路の弁を操作することは、犯罪としては大したものではなくても地域の人が許しません。水利は1000年も前から人々が命であがなってきたものだからです。水遊びの対象としてよいものではありません。

 以上、火遊びと置き石と選挙ポスターと水利、これらはただでは済まない重大犯罪だと、前もって子どもたちに教えておいたほうが良いのかもしれません。