カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「箱根に行ってきました」〜信じられない人と信じられない宿の思い出

 WBA世界ミドル級タイトルマッチと台風21号と選挙結果が気になる中、21日・22日と事情があって箱根に一泊旅行に行ってきました(選挙は期日前投票済み)。
 一日目は箱根ラリック美術館の見学、箱根湯本の温泉宿に一泊して、二日目は彫刻の森美術館という簡単な日程です。何しろ雨の降り続く中で自由が利きません。

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 箱根はおそらく三十数年ぶり、三回目です。

【とんだ豪傑の話】

 初めて訪れたのはまだ独身の頃、東京でサラリーマンをしていたときのことです。
 箱根のどこを回って何をしたかまるっきり覚えがないのですが、確か会社の同僚との日帰り旅行で箱根湯本の駅で現地集合に遅刻した先輩を待ったこと、その先輩が二日酔いでしかも前日と同じ格好で現れたこと(背広に出勤カバン)、そして帰りの電車の中でふざけて若い同僚を投げ飛ばし、投げられた方が肩を骨折してそのまま新宿で入院したことなどが思い出されます。
 もちろん飲んだ上の狼藉です。しかも投げられた方は翌日から別会社に正社員としてし出社することになっていて、おかげで入社初日は新会社の上司に向こうから来てもらい、保険手続きなどをしてもらうという、慌ただしくも悲惨なスタートとなってしまったのです。

 投げた先輩は乱暴な人ではなく、元司法浪人で頭も切れ、話もとても面白いなかなかの好人物なのですが、とにかく酒が好きで週に三日は臭い息をしながら出社してくるような人でした。
 それくらい朝はいい加減なのに、会社の創立メンバーのひとりで多少の遠慮もあったのか、あるいは酒さえなければいい人という思い込みもあったのか、あまりとやかく言われることもなくきたのですが、あまりにも頻繁に遅刻するのでさすがの社長も腹に据えかね、いつだったか厳しい指導をしたことがあります。

 小一時間余りもこってり絞られて社長室から出てきた彼は、すっかりしょげた様子でまっすぐ私のそばまで歩いてきて、横に座ると、
「Tさん、私、今、社長にこっぴどく叱られて『仕事に差し支えるなら酒なんかやめてしまえ』と言われたんですが・・・・」
「はい」
「私はですね、酒を飲むために働いているんで、仕事のために酒を断つというのは本末転倒だと思うんですがどうでしょう?」
 どうでょう?などと聞かれたって、そんな社会規範に反するような難しい問題を投げかけられても、まだ若造だった私には返答のしようがなく、愛想笑いを凍りつかせたまましばらく相手を見ているだけでした。

 まだ若い同僚を骨折させた時点では酔いが相当に回っている状態でしたが、さすがに翌日には醒め、病院を訪れて平謝りに謝ったようです。しかしそれでも酒を控えるということはありませんでした。

 その年の秋、高雄山にハイキングに行った際も(もちろん背広に通勤カバンで)朝から飲みっ通しに飲んで、山道を登るうちに崖で足を踏み外して数メートル落下、そこで柵に引っかかってようやく止まりました。ただし顔は左の額から右の顎にかけて有刺鉄線の針がフランケンシュタインの怪物のごとく突き刺さり、さらに酔って暴れるために腕や手や、体のあちこちに突き刺さって血だるま状態。

 しかし酒の力というのは恐ろしいもので、本人は痛みを全く感じないのか、医者に行くと言っても「まだもう少し飲まんと行けん」とか言って大騒ぎする、ようやく山から引きずり出し(材木の山出し状態)、嫌がるタクシー運転手を説き伏せて、シートが血で汚れないように私たちの上着で体をぐるぐる巻きにして、やっとのことで病院に投げ込みました。
 そこでもアルコールのせいで、止血にも苦労したみたいです。

 その翌年、私は地元の田舎町に戻って教員となり、以後“先輩”との音信はなくなってしまいました。しかし噂によると数年後、40代で結婚をして一児の父となったそうですから世も捨てたものではありません。
 奇特な女性というのはどこの世界にもいるものです。多少生き方に改善があったのならいいのですが。
 

【あんな宿は以後見たことがない】 

 二度目の箱根行も中身はほとんど覚えていません。印象に残っているのは宿だけです。教員になって間もなくのことだったと思います。
 箱根というのはおそらく日本一宿代の高い温泉街で、しかもシーズンオフというものがありません。一年じゅう混んでいて一年じゅう高い。そこにフリで出かけたのですから、私がいい部屋に出会わなかったのもしかたありません。ただしそれにしても世の中にこういう宿が存在し、こういう部屋があるということを発見をしただけでも、意味ある旅でした。記憶に残る旅。

 なにが変かというと、とにかく玄関から部屋に行くまでの廊下が半端なく長い、途中何回かクランクを折れて小さな階段を上がったり下りたりしながら、右に曲がり右に曲がり、最終的にたどり着いたのはおそらく玄関のすぐ隣り、つまり大枠で四角く一周してきた感じなのです。別にそうやって一段高い位置とか一段低いところに移ったというわけではありません。とにかくもう少しお金をかけて造作を直せば、玄関まで10数メートルという場所へ延々200メートルも歩いたのです(帰りにも確認したので間違いありません)。

 さらに驚いたのは部屋そのものです。
 そもそも案内所で相談したときに、部屋に選択の余地がなく、
「トイレと内風呂付の部屋しかなくて、少しお高くなっていますが」
と紹介されたのが、少しどころかとんでもなく高く、それを我慢して入った部屋の構造がどうにも理解できないものだったのです。トイレがとんでもないところにある。

 古いタイル張りの、内風呂としては大きすぎる浴室の、湯船の向こうの壁にトイレのドアがある、しかもかなり高い位置に。つまりかけ流しで24時間湯の入った湯船の縁に立ち、落ちないように風呂をまたいで扉を開け、中に入るトイレなのです。
 どういう設計思想でこれがつくられたのか。
 半分寝ながらトイレに入ろうとしたら行きか帰りのどちらか一回は湯船に落ちるだろう、そんな恐怖を感じざる代物だったのです。

 いまだったらすぐに写真に撮ってSNSに晒すところですが、当時は高価なフィルムをそんなものに費やす余裕がなく、証拠は残っていません。返す返す残念なことをしたと今は思います。

 もうあの宿は残っていないでしょうね。

【付記】

  村田は勝ってよかった。
 自民党はあそこまで勝たなくてもよかった。