カイト・カフェ

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「現代のジョニーはいかにして戦争に行ったのか」〜現代の「テロリスト群像」

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 ドルトン・トランボ監督の「ジョニーは戦場へ行った」は私がこれまで見た中で最も後味の悪い映画のひとつです。作品のできがよくないのではなく、最高級の反戦映画なのですが、多くの名作が心に切々と訴えて来るのに対し、「ジョニーは〜」はじかに内臓に訴えて来る、というか、“はらわた”を直接揺さぶって不快感を与える、そんな感じなのです。

 その不快感こそ戦争に対する嫌悪、人間が無残にそして無意味に殺されていくことへの耐えがたい吐き気なのです。

 【映画「ジョニーは戦場へ行った」】

 語り手であり主人公でもあるジョニーは徴兵によって恋人を田舎に残し、第一次世界大戦に出征します。
 しかし最前線でいきなり敵の砲弾を受け、顔の半分を吹き飛ばされて視覚・聴覚・嗅覚を失い、声も出せない状態になって母国に戻ってきます。そのうえ壊疽(えそ)して機能しない両手両足も切断され、わずかに首だけが動かせる肉の塊となってベッドに横たわっているのです。

 医師も看護師も軍の関係者も、ジョニーには感情も思考もないと考えて実験材料のように放置したままにします。しかし音のまったくない暗闇の世界で、彼は生きていたのです。

 たくさんの思い出を頭によぎらせながら、ジョニーは外界とのコミュニケーションを考え始めます。担当の看護師との間には不思議な心のつながりができていたのですが、それ以上は進みません。やがてジョニーは首を動かすという手段でモールス信号を送ることを思いつきます。

 激しく首を動かす異状に気づいた看護は軍の医師団を呼び、軍医のうちの一人がそれをモールス信号と理解して・・・。ほんとうに陰惨なのはこの先ですが、これ以上のネタばらしはなしでしょう。

【現実「彼は平和な街を戦場にした」】

 私がこの映画を思い出したのは、先日のマンチェスターおけるテロ事件の、犯人とされるサルマン・アベディ容疑者ことを考えていた時です。22歳のリビア系イギリス人青年です。
 彼は最後の瞬間、何を考えていたのだろうかということです。

 「ジョニーは戦場へ行った」の原題は「ジョニーは銃を取った(Jonny Got Hiz Gun)」で、これは第一次世界大戦中の志願兵募集の宣伝文句「ジョニーよ銃を取れ(Jonny Get Your Gun)」に対する痛烈な皮肉だそうです。呼びかけに応じた結果はあまりにも悲惨だった、それが物語の発端です。
 ただし実際のジョニーは呼びかけに応じたのではありません。徴兵によってほとんど何も考えず戦場に向かった青年で、戦場の圧倒的な現実によって初めて目を覚ました(と同時に失明した)人間です。

 それに対して、いちおう平和なイギリスのマンチェスターに生まれ育ったサルマン・アベディは、戦場でない場所を戦場にして、自ら自爆装置のスイッチを入れたのです。周辺にはたくさんの若者と子どもがいました。

 彼らを巻き添えすることは明らかです。そもそもの目的が“巻き添えにすること”でしたからスイッチを押した次の瞬間に起こることははっきりと予見できたはずです。
 その若者や子どもにも、自分と同じように平和な家族がいることも当然理解できていた。けれど彼は、スイッチを押した。

【子どもを殺すことの重さ】

 サヴィンコフの「テロリスト群像」にはロシア総督の馬車に爆弾を投げようとして思いとどまるテロリストの話が出てきます。カリャーエフという男です(のちに総督暗殺に成功。死刑になります)。
 第一回の襲撃で、彼は爆弾を投げようとする瞬間、馬車の中に子どもたちがいるのを見てしまったのです。だから思いとどまる。
 彼はアジトに帰って来ても激しく動揺します。
「ぼくの行動は正しかったと思う。子供を殺すことができるだろうか……?」
 それが普通の人間です。躊躇するのが当たり前です。

 サルマン・アベディには果たしてそいう逡巡はなかったのか。
 たくさんの子どもが自分の手にかかって死ぬということに現実的なイメージは湧かなかったのだろうか、その血、その骨、そのひしゃげた身体・・・。
 またその若い両親や兄弟姉妹の絶望・悲しみ、それらに対する想像力はまったく働かなかったのだろうか。
 あるいはその子が死なず、手足をもがれ、心身を傷害し、ベッドの中のジョニーのように一生を苦しみの中に過ごすということに対する心の痛みはなかったのか。
 それらを克服しても決行しなければならない大義、情熱、意志とは何なのか。

 人の命に軽重はないと言いますが、私は子どもを殺すことには特別の意味があると考えています。
 私くらいの歳になれば(死に値するかどうかは別として)罪のひとつやふたつは背負っているものです。それを理由に殺害を正当化する人がいてもやむを得ないかもしれません。しかし子どもはそうではありません。よくも悪しくも子どもは無垢なのです。その無垢なるものを殺すことができるということについて、私の理解は届いて行きません。

 ニュースの動向を見ながら、しばらくこの問題について考えて行きたいと思います。

*おりしも「狭山女児虐待死」と呼ばれる事件の裁判が行われようとしています。これもずっと気にしてきた事件です。