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「落差の恐怖」~北海道、しつけ置き去り行方不明事件に際して④

 小さな子どもを叱る場合は怖い表情と怖い声・口調で行わなければなりません。それでも足りなければ怒鳴りまくし立てます。しかしそれでもうまく行かない場合があります。言っても利かない、通用しない――。山の中に置き去りにしたり家から追い出したり、あるいは体罰に頼らざるを得なくなるのは、そういうときです。
 では体罰や虐待(および虐待もどき)に追い込まれないためにはどうしたらいいか、どんな風にしたら言葉の指導で恐怖を増幅できるか――。そのためには下準備が必要です。

 煎じ詰めると世の中に“怖い人間”と言うのは二種類しかいません。
 ひとつは「何をするか分からない人」――やくざ風の人、普通でない風体の人は何となく怖い、いったん怒るとどこで止まるか分からない人も、やはり怖い。
 もうひとつは「愛する人」――これについては若いころの恋愛を思い出せば分かります。好きな人の一挙手一投足に怯えたことのない人は純粋な恋をしたことのない人です。

「昔の親は怖かった」と言いますが、それはたいていの場合、父親が「何をするか分からない人」だったからです。
 昔のオヤジは、こうやって、ああなって、そこまで追い詰めれば怒るかもしれないといった手順、ないしは怒りのステージを無視して、いきなり怒鳴り始めたり殴ったりしました。突然くるのでまずビックリします。対処の仕方に困ってとりあえず畏まったりします。それでこちらが負けたことになって、釈然としないのですが仕方のないことでした。

 なぜそんなふうにいきり立つのか――それは自分が親になってわかりました。
 どんなに腹の立つことでも他人のお子さんならいくらでも待てるのです。手順を追える、ゆっくりと怒りのステージを上げて行って相手に対応を考えさせることもできる。しかし自分の子どもはダメです。あれほど手塩にかけて育てた我が子がアホだったかと思うと、感情的になって抑えが効かないのです。自分が親になってから、オヤジもあれでけっこう切なかったんだろうなと思うこと再三でした。

 昔の親はそうでしたし昔はそれでもよかったのです。しかし今はそういうわけにはいきません。子どもを殴れば最悪の場合「児童虐待(=逮捕)」ですから厳に慎まなくてはならないのです。逮捕にまでは至らなくても、子どもも小学校高学年以上になっていたりすると殴っただけで極悪人扱い。もともとの問題の是非などお構いなしに、殴った事実だけが大問題になります(その点は学校の体罰事件と同じ)。
 では暴力もなしにどうやったら恐怖を増幅できるのか。

 答えは簡単です。もう一方の怖い人=「子どもに愛される親」になればいいのです。
 同じ“叱る”でも、「大好きなお父さん」が叱るのと「どうでもいいお父さん」が叱るのとでは違うのです。大好きなお父さんに叱られるのは怖い、けれど日ごろ子どもに対して何もせず、人間関係もないような父親が、「いざというときはお父さん」みたいな言い方をされてのこのこと出てきても大して役に立ちません。多くが無残に敗北してしまいます。そんなお父さんは怖くない、怖くないから効果もない。
 また、効果がないだけならいいのですが、指導がまったく入らないことに傷ついた父親が、今度はヒステリックになって昔のオヤジのように暴力に訴える。そうなるとかえって面倒です。(参照

 子どもの躾をきちんとしたければ、子どもに愛される親になりなさい。
 言葉にしてみるとあまりにも常識的ですが、甘い話ではなく、いつか怒鳴りあげる日のための重要な下準備です。

(この稿、続く)