カイト・カフェ

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「国連の正義」~”事実はどうでもいい、ダメなものはダメ”でいいのか

 国連の人権高等弁務官が人権理事会で、昨年末の日韓合意について「国連の人権関係機関からだけでなく、元慰安婦自身からも疑義が呈されている」と指摘したという話がニュースになっています(国連人権高等弁務官の「性奴隷」発言に日本側反論)。

「最終的かつ不可逆的」ということで結ばれた先の日韓合意を、私は日韓両政府のギリギリの努力の成果だと思っています。
 日本政府は軍の関与や政府の責任を認め、元慰安婦支援として10億円を拠出することにしました。しかしそれをよく思わない日本国民はたくさんいます。同じように元慰安婦への徹底謝罪を放棄した韓国政府に対する不満は、韓国国内に満ち溢れています。

 私自身は軍の関与といっても、日本軍がトラックでやってきて一カ村の若い女性を片端拉致したといった乱暴なことはなかったように思っています。いかに日本軍が圧倒的な力を持っていたとはいえ、そうした無茶苦茶な状況に朝鮮半島の人々が黙って耐えていたとはとうてい思えないからです。拉致が事実なら必ず激しい反応があり、何らかの形で記録や記憶に残ったはずです。
 そのことを私は、一昨年のセウル号事件の際に強く思いました。

 昔から家族を失った際の韓民族の嘆き悲しみ方は尋常でないと感じていましたが、セウル号事件の際は激しい抗議の末に青瓦台まで歩いて行って糾弾すると言い出したり、一年にわたって現地に寝泊まりして政府に抵抗し続ける人々がいたりと、家族のために平然とすべてを投げ出す韓国の人々の様子が繰り返し報道されました。私は「そこまでやるのか?」と半ば呆れながら、しかし「そこまでやるべきだろうな」と尊崇の念も交えて見ていました。
 その韓民族が七十数年前は娘をかどわかされても黙って耐える卑怯者だったなど、あり得ないことなのです。

 けれど問題はそこにはない、韓国併合やそれ以降の植民地政策によって「従軍慰安婦」にならざるを得なかった少女たちに対して、日本及び日本政府はツバを吐くことはあっても心を痛めたり謝罪することはなかった、余りにも少なかった、そこにこそ問題がある――そう考える立場もあります。それも理解できないことではありません。

 ただひとつ、日本軍が無垢な少女たちを次々と拉致して「慰安婦」に仕立てたというイメージ、その象徴としての「性奴隷」に頑強に抵抗する日本と、元慰安婦を売春婦に貶めるなと強硬に主張する韓国――今日まで見てきたように、それは絶対に相容れることのできないことです。
 その「絶対に相容れることのできない」ことを、「あたかも相容れたように」してしまうのが政治です。そうしないと何も前へ進まないからです。

 昨年末の日韓合意では両政府とも苦い薬を飲みました。両政府は国民の一部の強烈な抵抗をわが身に背負うことで、日韓関係を前に進めようとしました。それでいいのだし、それが知恵というものです。
 そしてこれでようやく歴史は前へ進めるというときに、よりによって世界平和の要である国連が水を差してくるのです。国連は紛争を解決する場なのか、紛争の火を絶やさないようにするための組織かわからなくなります。

 時を同じくして、子供の人身売買やポルノ問題を担当する国連のブーアブキッキオ特別報告者(オランダ)は、日本における子どもの人権問題についての深刻な報告書を発表しています。それによると、女子高生らに男性の接待などをさせる「JKビジネス」について、「12〜17歳の女子中高生の間ではまれなことではなく、彼女たちは立派なバイトと考えている」と指摘し、しかし「性的搾取を促進し、搾取につながる商業活動」であるから禁止するようにと勧告しました(JKビジネスは「性的搾取につながる」国連特別報告者が禁止を勧告)。
 私もJKビジネスを好ましいものとは思いませんし、性的搾取に繋がる可能性もあると知っていますが、だからといって国連の場で議論するような問題かどうか、ふと首を傾げます。
 ブーアブッキオ女史は昨年の11月に「日本の女子生徒の13%が援助交際に関わっている」と発言して物議を醸した人、「事実はどうでもいいけど、ダメなものはダメ」と正義を押し付ける感があります。

「日本の常識は世界の非常識」とか言い出す人がまたぞろ出てきそうな気もしますが、国連の道徳観は私たちのそれとは、どこかで微妙にずれているのではないかと思わせるところがあります。