カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「エコロジーのわかりずらさについて」②

 もう二十年近く以前の話です。
 小学校4年生の担任をしていた私は環境教育の一環として市のごみ焼却施設の見学に行きました。溶鉱炉に似た巨大施設で、ゴミが焼却炉に次々に送られていくのを高い位置から観察できるのです。そしてそこで私は慄然とさせられます。
 下見の時には気づかなかったのですが、同じ炉に、赤い文字の書かれた可燃ごみと青色文字のプラスチックゴミの袋が、一緒にボンボン投げ込まれているのです。子どもは気づいていません。

 その場では質問できない(子どもに知られるとまずい事情があるのかもしれません)ので後日、知り合いを通じて問い合わせると、要するに炉が旧式で水分の多い生ゴミを含んだ可燃ごみを十分に燃やすことができない、どうしてもプラゴミの火力を当てにせざるを得ないと言うのです(現在は改善されています)。
 だったら最初から分別させる必要はないだろう、市民に余分な負担をかけるだけではないかと重ねて聞くと、「それは心がまえの問題ですから」との回答。――私は釈然としませんでした。分別することの意義や重要性をずっと教え、何時間もかけて学習してきたのです。教師として何をやってきたのか――。

 以来、私はずっと慎重になって環境問題には深入りしないようにして来ましたが、同僚にはダイオキシンに何年も取り組んできた人もいれば、「クリーンで圧倒的に発電能力の高い原発」の学習を続けた人もいます。クラス全員で「マイ箸」をつくり、常に“環境”を意識できるようにした教員もいます。とりあえず私も含め、全員が嘘つきのようなものです。
 教師はいずれ学びなおし成長を遂げるからそれでもかまいません。しかし子どもの学習は一回性ですから、初めて感動をもって学習したことを訂正するのは難しいのです。私と同じように「なんだ環境問題ないなんて、大したことではないんじゃないか」ということになりかねません。

 菅直人元首相は退任直後、地方の街頭演説で、
原発なんかなくても日本人は生きていけるのです。百年前の江戸時代、私たちの祖先は野山の薪を集めてそれでエネルギーを賄っていた。そう考えると今だってできないことではありません」とおっしゃいました。

 江戸末期の日本の人口は2500万人ほど。現在よりちょうど1億人少ないくらいです。同じ生活をしようとしたらとりあえずそれだけ人口を減らさなくてはなりません(薪だけの生活では食料生産も格段に落ちますからほうっておいても1億人くらい減るかも知れませんが)。そしてコンピュータも車もなく、テレビもスマホもない暮らしを、果たして日本人が(日本人でなくても)できるのでしょうか。

 国際社会では不合理がまかり通り、ならず者が闊歩していることは知っています。しかし日本国内に限れば、もっとましなことができるはずです。なぜもっと冷静な話ができないのか、なぜもっと科学的でいられないのか、私は不思議に思っています。