「私はそう信じて疑いません」

 総合病院の受付で会計の順番を待っている時、ひとりの2〜3歳くらいの女の子がこちらに走って来て、私の横にあった飲み物の分別ボックスにジュースの紙パックを投げ込みました。 

 私は「あっ」と思いました。残念なことに空き缶の入れ物に紙パックを投げ込んでしまったのです。三つ並んだボックスはあいにくなことに「カン」「ペットボトル」「ペットボトル」で、可燃物はその向こうの小さなゴミ箱にいれることになっています。きちんと説明書きがついているのですが小さな子では読めません。しかたないので私は、目で、『お利口だね』と言って(というのは偶然その子と目が合ったからなのです)そのままにしました。一個くらいの間違いは許してもらえそうですし、何よりもそんな年頃で分別ボックスのところまで持ってくるのが偉いと思ったからです。

 お母さんは財布をバッグに入れて中を整理していたので、その瞬間は見ていません。偉いなあと思ったのは、そのお母さんが確認に来たからです。

「あれ? できたのかしら?」

 そう言いながらボックスの中をのぞき込むのですが、深くて底の方までは見えません。母親も近づいて見るまで、それが「カン」「ペットボトル」「ペットボトル」だと気づかなかった様子です。

 私は、

「間違えて『カン』のところに入れちゃいましたけど、いいでしょう」

と言いました。

 関係者でも何でもない私ですが、母親も安心した様子で「ありがとうございます」と言ってその場を立ち去ろうとします。私もやっと「いい子だね」と声に出して言えたのでよかったなと思いました。

 今、私が読んでいるのは「『昔はよかった』と言うけれど: 戦前のマナー・モラルから考える」(大倉 幸宏 新評論2013/10/8)という本です。

 簡単に言ってしまうと「昔はよかった。道徳もマナー・モラルも現在は地に落ちてしまった」といった言い方に対して、「そんなことはないだろう、昔だってひどかった」という反証を提示するものです。ただし私の場合は「昔だって〜」ではなく「昔はひどかったが今は素晴らしい」という立場を取っています。

 もちろん今でも道徳的に問題な人はたくさんいます。しかし平均的なレベルで言えば現在の方が圧倒的にいい、息苦しいほどの道徳性が求められている――と考えるのです。

 その異常に高い道徳性は、少なくとも組織的には、学校がつくってきたのです。私はそう信じて疑いません。もちろん前述のお母さんのような賢く誠実は人々が、長い時間をかけてその基礎を築いている事実も見逃せません。しかしそのお母さんも私たちが育ててきたのです。

 私はそう信じて疑わないのです。