カイト・カフェ

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「いじめの軛(くびき)」1〜マイ・レジューム

 今はどこでどのような暮らしをしているのかわかりませんが、私はいつも彼女に深く首をたれ、深い感謝と謝罪の表す心づもりで生きてきました。死ぬまで私が背負っていかなければならない負債です。
 よくぞ死なないでくれた、よくぞ耐えてくれたと、感謝ともに感嘆せざるをえません。それほど彼女の受けたいじめはひどいものでした。

 一方それとは矛盾するようですが、いじめに加担した子どもたち、傍観者の位置に立たされた生徒たちに対しても、私は詫びなければならないと思っています。
 人はいつまでもいじめの加害者・傍観者でいられるはずがないと思っていたのですが、この経験を通して、実際にはそうでないことを知りました。子どもたちには時には罪悪感に苛まれながら、時に心の中で泣き、心の中で手を合わせながらも、いじめを続けなければならない人間関係や状況があるのです。すべては人間関係と状況の制約を受けているのです。

 彼女の受けたいじめは残虐なものでした。
 一例を挙げれば、その子を交え、女の子十人ほどで「カゴメカゴメ」をやるのです。中央にしゃがむ子は順次交代するのですが、その子が中心になるときだけ歌いながら輪を縮めて皆で蹴ります。他の子が中心にいるときはそうはなりません。順番が回ってきた時の彼女の恐怖は、想像するだに恐ろしいものです。そして蹴っている側にも、死ぬほどの恐怖と戦っている子がいたのです。
 もちろん私はその場で見ていたわけではありません。すべてはずいぶん後になって聞いたことですが、本当に申し訳ないことをしました。

 いまやこれほどのあからさまないじめの姿を見ることはありません。学校が指導したからです。そのぶん“いじめ”は深く沈潜し「現代のいじめはより陰湿になった」と言われます。しかしだからといって「より悪く」なったのではないのです。いじめの規模は昔よりずっと縮小され、扱いやすくなったとも言えます。個人指導がしやすくなり、心の深いところまではいることができます。しかしその分、見えにくくなったのも事実で、教師の知らないところで起こる事件については指導の手が入らないこともあります。
 全体として問題の厄介さは、内容こそ変化しても難しさは変わりないといったところでしょう。

 いじめに関してはこれまでも様々な方面から多角的な検討が行われてきました。しかし今日に至っても事件が後を絶たないのは、そうした検討や考察が現実を反映していないからなのかもしれません。
 文科省の定義はその典型で、
『個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない』
(平成18年度『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査』)

「いじめ」に当たるか否かの判断は、(略)いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」というのは要するに客観ではなく、“被害を訴える者の主観”から判断せよということで、これは著しく世論やマスコミに配慮した定義です。しかし客観性を問わないというのは、問題を恐ろしく単純化させ、解決を困難にする一本道です。この定義に従っている限り、強圧で抑え込むこと以外に方法はなくなります。

 これまでの“いじめ問題”の考察が有効でないもう一つに理由は、常に事象が静的に見られてきたということです。“いじめ”は人間関係の中から生まれますからそこに至るプロセスや状況の変化があるはずです。それをどこかの一面(ふつうは最終局面)でのみ切り取って考察するのですから、事態がわからなくなるはずです。

 私は一人の女生徒を犠牲にする形でその変化の様相を見てきました。そういうことを含めて、だから言えることがあります。

(この稿、続く)