カイト・カフェ

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「民族の根幹は国語である」~国敗れて山河あり①

  内田樹がWeb上で「2015年の年頭予言」を書いています(『内田樹の研究室』 2015.01.01)。
 それによると日本は政治・経済ともに滅びの道を歩んでいる、しかし国敗れて山あり、山河が残っている限りはこの国は大丈夫だろうと、そんなふうに言っています。内田の秀逸はその「山河」の中に、日本の言語、学術、宗教、技芸などを入れていることです。こんなふうに書いています。

 私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。
 日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。
 日本語の語彙や音韻から、「当たり前のように定時に電車が来る」ことまで含めて、私たち日本人の身体のうちに内面化した文化資源と制度資本の全体を含めて私は「山河」と呼んでいる。
 そしてそれらが残る限りこの国は生き延びることができるだろうと、そんなふうに語っているのです。

 前半(政治・経済の滅び)は別にしても、後半はまったくそのとおりだと思います。たぶん「日本」の実体はその民族性にあるのであって、それさえ失わなければ「日本」は永続し、繰り返し滅んだとしても必ず復活できるはずです。
 ではその「民族性」の根幹は何かと言うと、それは間違いなく国語です。これはすべての民族に共通することで、前例があります。

 例えばローマ帝国は、母国語であるラテン語バチカンに押し込めたまま、一切を捨てしまったために二度と復活できませんでした。けれどそれよりしばらく前に滅びたイスラエルは、ヘブライ語を終始保持し続けました。日常語としてのヘブライ語は失われましたが、1800年もの間、ユダヤ人たちは綿々と母国語の文章を書き続けたのです。その結果、第二次世界大戦が終わって新生イスラエルが誕生すると、ヘブル語は再び公用語として行き返ることができたのです。

 国語こそ民族の根幹です。
「もったいない」という言葉のない民族には“もったいない”という概念も感じ方もありません。“Mottainai”とローマ字表記しても、その中身は他の民族に正確に置き換えられるものではないのです。「わび」「さび」といった概念や感じ方を共有できる外国人は少なくありませんが、だからといってドナルド・キーンが、アメリカの主流派になることもなかったのです。
 ちょうど“Gentleman”を「紳士」と訳し“Citizen”を「市民」と訳しても、ヨーロッパ的な意味での“Gentleman”も“Citizen”も日本に育たなかったのと同じです。

(この稿、続く)