民族性の中核は国語です。国語を失わない限り民族は存在し、維持され続けます。
その“国語”はさまざまものを付随します。例えば「もったいない」はその概念や感じ方、行動の仕方を身にまといます。「おもてなし」も単独の単語として存在するのではありません。非常に多くのものを引き寄せ、生き生きと躍動します。交通が正確に動くのも、店員が気持ちよく対応してくれるのも、知り合い同士が軽く会釈して交差するのも、すべて「おもてなし」に関わる何かがあるからです。
それを含めて内田樹は「山河」と呼びます。そして2015年1月1日のブログをこんなふうに締めくくるのです。
多くの人たちは「加速」を望んでいる。
それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかはどうでもいいのだ。早く今のプロセスの最終結果を見たいのである。
その結果を見て、「ダメ」だとわかったら、「リセット」してまた「リプレイ」できると思っているのである。
でも、今のような調子ではリセットも、リプレイもできないだろう。
リプレイのためには、その上に立つべき「足場」が要る。
その足場のことを私は「山河」と呼んでいるのである。
せめて、「ゲームオーバー」の後にも、「リプレイ」できるだけのものを残しておきたい。
それが今年の願いである。
しかし私は疑問に思います。なぜなら内田の言いう“山河”は、ここでは自明の存在だからです。山や川や木々があるように、民族性という山河は不動のものとしてあるかのように語られているのです。しかし国が滅びても、山や川などの自然環境と同じように民族性は残ると、内田は本気で考えているのでしょうか。
日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービス
これらは一朝一夕につくられたものでなく、長い時間を使って日本人が育て維持してきたものです。遺伝子のように体の中に組み込まれていて、放っておいても保存され発露するようなものではありません。誰かが、意図的・計画的に作成してきたのです。
学術や芸能はそれぞれの分野の先達が慎重に積み上げてきました。
交通や通信の安定的な運転はそれぞれの企業が不断に教育をつづけたからに相違ありません。
クラフトマンシップや接客サービスもそれぞれの現場が繰り返し磨きをかけてきたものです。
しかしそれらが可能だったのは、素材としての日本人=日本の子どもたちに“教育”を受け入れる素地があったからにほかならないからです。
その子どもたちを誰が教育したのか――。
そう問い返して思いつくのは学校だけです。少なくとも組織的・計画的な教育となると日本国内においてはそれを成しうるのは学校を置いて他にありません。日本義務教育こそ、民族性(内田の言う“山河”)の基礎を支え、現在も最も有用に働くシステムなのです。