「新年の誓い」〜汝自身を知れ

 たいていの学校でたいていの担任が児童生徒に「新年の誓い」を書かせると思いますが、それはなかなかいいことだと思っています。

 例え三日坊主に終わろうとも、前年を振り返り、こんなことならできそうだなと思ってスモールステップで目標を定める。一年の初めに、各学期のはじめに、その都度誓ってその都度三日坊主に終わる、それでもまたその都度自らを振り返る、かなり悪くない感じです。

 しかしところで、私たちはなぜそれを自分に課さなかったのでしょう。

 実際には教室の“誓い”の掲示を見ると、生徒の掲示の並びに担任の先生の“誓い”が飾ってあったりします。しかしそれはたいてい若い先生で、年配の教師の記述を見るのは稀です。避けて通っているような感じもします。

 ベテランとなればいい年をしてレベルの低い目標は立てにくいし、かといって高すぎる目標では達成できない、子どもにもシメシがつかないと言った感じなのかもしれません。かく言う私も、もう何年も新年の誓いを立てずに来てしまいました。そこで今年は・・・と思ったのですが、これがなかなかうまく行かない。何も浮かんで来ないのです。まるでできの悪い中学生のようなものです。

 何が邪魔しているのでしょう。

 気づいたのは、結局、目標設定には枠組みが必要だということです。例えば小学生は、安易といっていいほど簡単に目標を立ててきますが、それは子どもたちが自分の枠組みをしっかり持っているからです。自分は勉強しなくちゃいけない子どもで、そのためにはいつも親や先生から言われていることを克服しなければならない存在だ、といった感じです。だから「宿題をきちんとやる」「忘れ物をしない」など、さっさと書いてきます。現実にはそれがどれほど高いハードルでもさほど気にしません。

 けれど中学生ともなると話はもう少し複雑で、勉強や部活にある程度の道筋が見えている子は「数学の成績を挙げる」とか「部活でレギュラーを目指す」とか、少しひねったところでは「授業中、眠らない」とか、それぞれ目指す自分から逆算した、具体的な「今の自分の目標」を置くことができますが、勉強も部活も学校生活のもろもろもうまく行っていない生徒は困惑します。「授業中、眠らない」自分にさえ価値を感じていないのです。

 ほんとうは「もっとケンカに強くなりたい」と思っていても、それは学校の枠組みの埒外ですから教室には掲げることはできません。かくしてその子は困ってしまうのです。

「汝自身を知れ」はアポロンの神殿にあった銘文だそうですが、それがないと始まらない。

 かくして私は新年早々、自分探しの心の旅に出るような、妙な気持ちになってしまったのです。