「手術準備、失恋の悲しみ」〜ガン病棟より⑤

 確定診断が出て手術日が決まり、私は胸部内科から胸部外科へと移りました。ここから手術に向けた検査や準備が始まります。たとえば自己血採取――手術中に輸血が必要になった場合もっとも適合するのは自分の血液だから予め採っておきます。麻酔の適合とか、細かいものになるとテープの適合検査とかいったことも準備の中に入ります。テープの種類によってはかぶれる人もいるからです。そして私には術後の生活改善のためにということで、奇妙な器具が与えられます。

 それはプラスチックケースの中に透明のシリンダーが並んだ、赤ちゃん用の玩具みたい器具です。シリンダーの中には色違いのプラスチックボールが1つずつはいっていて、横から伸びた蛇腹のパイプで息を吹き込むと、ボールが上に上がるのです。ネットで調べたらトリフローという名で写真のようなものが出ていましたが、私の時は4本あったと思います。
 一番右端は軽い息でボールが上がります。しかし2番目もあげようとすると容易ではありません。そうとう息が強くないと浮いてくれないのです。それが上がらないと3番目も4番目もびくともしません。私の場合は右端のボールが一番上まで、右から2番目はようやく2〜3センチ浮く、といった感じでした。
 主治医からは「手術までに3番目も上がるようにしましょう」と言わたので、私は4本とも上げ切ろうと固く決心しました。

 世間は「酒鬼薔薇聖斗」が中学生だったということで騒然としていました。同じ時を私は、幼児玩具のような器具に向かい、毎日顔を真っ赤にして頑張っていたのです。

 では、そんなふうに毎日、前向きにのん気に日々を送っていたかと言うとそうでもない面が二つありました。ひとつは時間がかかりすぎていることです。

 最初に咳が出始めた時から数えて三ヶ月以上、田舎の総合病院で告知されてからも一ヶ月以上。その間なんども同じような検査を続けることにはほんとうに辟易としていました。今この時期にもガン細胞は、全身に広がっているかもしれないのです。医師たちはその状況をなぜ放置できるのか――一方で「まな板の上の鯉」になりきってすべてを医師に委ねると決めていたのに、それだけはずっとイラついていました。そしてもうひとつの問題は――あきれたことに、この期に及んでも私はタバコがやめられなかったのです。

 それは歌劇「カルメン」に出てくるドン・ホセに似た気持ちです。あれが悪い女だということは百も承知なのです。しかし忘れられない――近づけば身を持ち崩すのは明らかで、家族も友人も長年培ってきた信頼も財産もすべてを失うことはよく分っているのに恋しい。
 いまでも明確な記憶があるのですが、タバコを遠ざけている時の私の気持ちは「悲しみ」でした。ほんとうにどうしようもない悲しさと寂しさ――そしてホセがそうであったように、私も悲しさに引きずられて悪女のもとに向かって行くのです。
 もちろんパジャマのままというわけにはいきません。一応、私服に着替え喫煙室に入ります。ところがかなり広いその部屋はパジャマ姿の男女がけっこういるのです。この病院の患者たちは、ひと癖もふた癖もある人ばかりなのです。

 

(この稿、続く)