カイト・カフェ

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「ボク、いいから」~予感:必ずしもオリンピックに出なくてもいいと思うアスリートの出現

 ソチ・オリンピックが終わりました。出だしがぱっとしなかったので日本は低調な大会かと思っていたら、メダル8個は長野オリンピック(10個)に次ぐ大記録なのだそうです。そもそも、冬季大会それほどは強くなかったということなのでしょう。
 もっともメダルの数で国威を示そうとか、国家の優劣をつけようとかいった時代でもありません。選手は基本的に、個人あるいはチームとして戦っているわけですから、あまりメダルにこだわるのも大人げないでしょう。応援する私たちもある程度余裕を持って見ています。それが成熟した国家、成熟した国民のあり方で、日本は十分その域に達しているのです。
 ところが一方で、それとは正反対の考え方がスポーツ界にいま広がろうとしています。それはアカウンタビリティの問題として入りこんできました。
「税金で運営されている以上、成果は目に見える形で示されなければならない」
 どこかで聞いたような話ですね。

「成果を目に見える形で示せ」というのは要するにメダルを取れということです。個人ベストとか感動とかはもういい、税金が意味あることに使われたと誰にでも分かるようメダルの数で示せ、ということです。

 困ったことに、税金をむだ遣いしてはいけないというのは皆が共有できる“正義”です。これに逆らうことは誰にもできません。しかし一方で、私たちの心の底には「メダルが絶対ではない」という強い思いがあります。

 浅田真央がフリーの最後で泣いた時、私たちの目にも思わず涙があふれた、個人の銀メダルではヘラヘラしていた41歳の葛西紀明が、団体の銅メダルでは男泣きに泣いた、ついにメダルを手にすることのできなかった上村愛子は満足げに競技生活を終えた、そういったことのすべてには“意味”があるという確信です。

 こういった確信の前に、「だけど結局メダルが取れなければ意味ないじゃん」とか「メダルといったって銀や銅では意味ないじゃん」とかいった考えは明かに軽薄です。しかし軽薄だと非難して、それで相手が引き下がるとも思えません。「メダルを取れなくても存在する意味」を納得させるのは容易ではありません。なにしろ数値化することができないからです。

 まさかテレビモニターの前に3000人の被験者を集め、競技終了後の心拍数を計ったり涙センサーをつけて0.01ミリリットルの涙を計量したりすることもできないでしょう。そうしたことに意味があるとも思えません。結局、税金の使途の検証には、常にメダルの数が付きまとうのかもしれません。そしてそのことは、日本の競技スポーツを居間より貧弱なものにするはずです。アスリートは競技を楽しめないからです。かつてそうであったように、勝たねばならないという重圧に苦しみ、一部は責任をとって自死しなければなりません。国民の血税をむだ遣いした責任は取らなければならないのです。

・・・と言いながら、しかし一方で、そうはならないのではないかという思いも私にはあります。なにしろ時代は変わり、選手たちの意識も変わっているからです。たとえば銀・銅のメダルにも関わらず、さっぱり感動の伝わってこなかったあのスノーボーダーたち、彼らならいともあっさりとこの問題をすり抜けてしまうのかもしれません。

「そんなに面倒くさいなら、ボクたち、オリンピックに出なくてもいいから」

 そうなればもうメダルの数どころではなくなります。