カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「ぺリーの機関車」~日本人の文化の消化力

 調べたら明後日23日は、ペリーが蒸気機関車の模型を贈呈した日だそうです(1854)。

 ペリーが最初に浦賀沖に来たのは1853年(旧暦)6月3日のことです。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と歌われたときです。しかしその際、ペリーは大統領の親書を渡しただけで具体的な開国要求などはせず、そのまま日本を去っていきました。何も決められない幕府が、とりあえず相談するから来年来てくれと、そんなことを言ったからです。

 ペリーは約束を守ります。ただしアメリカに戻るのではなく、そのまま香港に滞在して艦隊を整え、翌1854年1月16日に9隻の軍船とともに来航するのです。確かに「翌年」には違いありません。
 うろたえた幕府はそれでも言を左右にして抵抗しましたが、業を煮やしたペリーが艦隊を一気に進め、江戸湾深くまで侵入するとさすがに支えきれず、同年日米和親条約を締結するに至ります。

 ペリーはその時アメリカの実力を見せつけるべく、将軍への献上品として33種類におよぶ品物を持参しました。その中には蒸気機関車の模型、有線電信機、時計、望遠鏡、小銃、農具、ミシン、地球儀、天球儀、六分儀などが含まれていたといいます。
 蒸気機関車は模型といっても実際に蒸気で走る4分の1スケールで、長さは1・8mもありました。小さな客車を一輌引き、横浜の応接所裏の麦畑に敷設された110mの円軌道を時速32㎞/hで走ったといいます。幕府側の役人たちは無邪気に列車の屋根に乗りながら、しかし欧米の実力に肝を冷やしたことでしょう。

f:id:kite-cafe:20210316091523j:plain

 ところで、同じような蒸気機関車を独自に作り出すのに、日本人はどれくらいの年月を必要としたのか――。
 答えは1年。早くも翌年1855年佐賀藩は全長39.5cm、幅14cmというミニサイズながら、独自で蒸気機関車の模型つくりあげ、走らせることに成功しています。とんでもない技術力です。
 しかし実を言うと佐賀藩が真似をしたのはペリーの機関車ではなく、その一年前、長崎に来航したロシアのプチャーチンが艦上で披露したものでした。その際、警備をしていた佐賀藩の中村奇輔らが興味を持ち、藩に帰ってから仲間の田中久三(儀右衛門)らとともに取り組んで、わずかの間に完成させたのです。

 田中久重は「東洋のエジソン」とか「からくり儀右衛門」と称される発明家で、独自のからくり人形を始め、折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気によって灯油を補給し続ける「無尽灯」などを発明しました。のちに天文学を学んで日本の不定時法に合わせ、季節とともに自動的に文字板の間隔が変わる「万年自鳴鐘」というとんでもない時計を発明したりもしました。数年前に大ヒットしたテレビドラマ「JIN-仁-」でも、主人公ところにきて、やたら質問する男として描かれていました。

 久重はのちに東京に移って電信関係の田中製作所をつくります。その子の2代目久重は会社を芝浦に移して株式会社芝浦製作所とし、やがて東京電機と合併、東京芝浦電気株式会社とします。現在の東芝の前身です。

 ペリーの機関車は幕府の海軍所に保管されていましたが、維新を待たずに火災によって失われたようです。
 またペリーが持ち込んだ33品目の中の「ミシン」には、「御台所様へ」という札がついていたために大奥に送られました。その8年後(1862)幕府滅亡直前の江戸城内で、楽しくミシンで縫物をする女性の姿が記録に残っています。NHKの大河ドラマで有名になった「篤姫」です。
 日本で最初にミシンを踏んだのが誰かは分かりませんが、楽しく縫物をしていたのはまず間違いなく篤姫だったようです。