カイト・カフェ

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「断頭台と東京の居酒屋」~声は出さなくてはいけないが、声の大きさは現実を反映しない①

 フランス革命の際、断頭台の王侯貴族は毅然として死に向かった――
 しかしそのことが事態の深刻さを見誤らせることになった。
 21世紀の日本では、必ずしもみんなが黙っているわけではない。
 しかし声の大きさと現実は、必ずしも一致しないのだ。
という話。

f:id:kite-cafe:20210621070353j:plain(「マリー・アントワネットの処刑」)

 


【みんなデュ・バリー夫人のように】

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 シャルル=アンリ・サンソンはフランス革命期の死刑執行人で、ルイ16世マリー・アントワネット、エベール、ダントン、ラヴォアジエ、ロベスピエールサン=ジュストシャルロット・コルデーといった著名人の処刑のほとんどに関わった人です。
 大変な人格者で人を分け隔てしない平等論者、執行人でありながら死刑廃止論者、そして医師であり、むち打ち刑などで自らが処罰した罪人の治療も、熱心に行ったと言われています。

 そのサンソンに処刑されたひとりに、デュ・バリー夫人と呼ばれる人がいます。若いころはサンソンと恋人同士だった時期もあったと噂される女性で、ルイ15歳の愛人として、またマリー・アントワネットと厳しく対立した女性としても有名です。しかし何といってもその名を残すことになったのは、彼女が処刑の日、自らの断頭台を直視できなかったただひとりの人であり、泣き叫び、群衆や処刑人に命乞いをし、わめきながら処刑された唯一の人だからです。元々が卑しい家の出で、運と美貌と才覚だけで出世してきた人なので、守るべき家名みたいな面倒なことがなかったのです。
 しかしそんな夫人の様子を見て、その日まで王侯貴族の処刑されるのを娯楽のように楽しみ、囃し立てていた群衆は、初めて何が行われているのかを知り、夫人の死に行く姿を粛然と見守ったと言います。

 さすがのサンソンもこのときばかりは手が下せず、息子に代わってもらいました。そしてのちに日記にこう記すのです。
「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び、命乞いをすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」
 ほとんど同様の文を、18世紀最大の女流画家と言われるルブラン夫人も残しています。
「私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」

 デュ・バリー夫人の逸話が伝えるのは「訴えることの大切さ」です。
 人が人を殺すことの恐ろしさ残虐さは、誰にだってわかりそうなものですが、デュ・バリー夫人が叫びだすまで、数万の群衆の誰一人気づかなかったのです。ほとんど毎日のように公開処刑が行われていたにもかかわらず――。

 しかし私がいま書こうとしているのは、それと正反対のこと、言ってみれば、
声の大きさは現実を反映しない
という話です。
 
 

 【声の大きさは現実を反映しない】

 私はこの一カ月余り、常に薄くイライラし、思考を空回りさせてきました。
 考えていたことはコロナ禍の問題であり、ハラスメント問題であり、ブラック校則の問題であり、いじめ問題、そして教員の働き方改革の問題などです。
 私の中にはそれらをつなぐ何かがあり、その何かに対してずっとイライラしてきたのです。そしてここにきてようやく正体を掴んだ気がするのです。捕まえてみれば大したことではありません。

 例えばコロナ禍について――
 私はつい最近(2021/6/2)、「ある自営業者の誇り」~国や都には感謝していると言える人の美しさ。という記事を書き、そこでコロナ禍でさっぱり客の来ない居酒屋店主が、

「店がつぶれないってのは、ホントに、お国と東京都には感謝しているよ。」
と話す姿を紹介しました。
千代田区のひとに訊かれて、いや自分はこういうふうで感謝してますって言ったら、逆に都の職員から、飲食店の方からそのように言われたのは初めてなので、ありがとうと言われたよ」

 一方その直前の5月27日には「言葉が怒りをつくる。その怒りでつながる人たちがいる」~マスメディアが生み出す”怒り“ の中で、マスコミが、
 緊急事態宣言下の酒類の提供自粛・営業時短を拒否して、深夜までアルコールを提供している居酒屋店主を登場させ、
「客の入りは300%、儲かっています。けれど(ウチはまだいい方で)給付金をもらいながらドアにカギをかけて営業している店だっていくらでもあります」
などと発言させていた局がありました。

という話もしています。

 もちろん後者のことがあったからこそ、国と東京都に感謝する居酒屋店主の美しさが際立って記事にする気になったのですが、だからと言って300%店主が間違っているというつもりもありません。ほんとうにぎりぎりのところまで追いつめられていたのかもしれないからです。
 明日は死ぬしかないというぎりぎりのところまで行って酒類の提供に踏み切った――それなのに自分が許せなくて「客の入りは300%、儲かってます」と悪ぶっているのかもしれません。
 またデュ・バリー夫人の場合のように誰かが大声で叫ばなければ、コロナ禍における飲食業の窮状が私たちや政府に届かなかったかもしれないとも思います。

 しかしそう思う一方で、私の心の中では、
「だけどたくさんの居酒屋が酒を出さない状況に耐えているじゃないか。国や都の要請に従わず、やむなく酒類の提供や深夜営業に踏み切った飲食業者は、ほんとうにギリギリのところまで頑張ったのだろうか」
という疑いが消えないのです。

 私は商売の経験がありませんし、ましてや居酒屋営業の中身など想像だにつきません。ですから軽々に発言してはいけないと思うのですが、声を上げている人々の中にも、もう少し頑張れる人、頑張るべき人はいたように思うのです。
 このことは多くの場合、ハラスメント問題や学校問題についても言えることです。

(この稿、続く)