乙姫というのは 悪意の誘惑者かもしれない
10歳の不登校Youtuber「少年革命家ゆたぽん」を支持する人々も
そしてゆたぼん君自身も 無意識の あるいは悪意の誘惑者かもしれない
というお話。
【悪意の城『竜宮』の罠】
「私家版:浦島太郎」を書いたのはもう20年以上前のことですが、最近、「乙姫様は優しさから浦島太郎が仲間のところに戻りやすいよう、老人にした」という設定が苦しい感じになってきていました。
どうして苦しいのか、はじめは分からなかったのですが、どうもauのコマーシャルのせいらしい――auで乙姫様を演じているのはモデルの菜々緒さんですが、失礼ながらあの悪女顔、それで「太郎を思い遣って・・・」というのがピンと来なくなっているのです。
疑い始めるときりがなく、最初から怪しい。
竜宮のカメは、なぜよりによって浜の悪童に見つかるような場所にいたのか、野生の本能は働かなかったのか?
カメは甲羅に手足を引っ込めてしまえば子どもに棒でたたかれたくらいでは痛くもなくケガをする心配もない、じっとしていればやがて子どもは飽きる。なのになぜこんないじめ甲斐のない海獣がいじめられ役に選ばれたのか。
そこに乙姫の深謀遠慮があったのかもしれない。
つまりカメがいじめられていれば助けに来る人間がいるかもしれない、本当は助ける必要のないカメを助けるような人間だから、何の疑いもなく竜宮に付いてくるだろうということです。
そこに乙姫の深謀遠慮があった。
若い女性が暴漢に絡まれて困っているフリをするとか、ハイヒールのかかとが折れたとか、わざとハンカチを落とすとか、若い男を誘い込む方法はいくらでもあります。
何のために?
おらく目的は太郎の若さとエネルギーです。それを吸い取って乙姫は生きている――そう考えないと、あの研ぎ澄まされた美貌もスタイルも、理解できません。
もちろんタダで奪い取ろうというのではありません。3年間の「飲めや歌えや」は謝礼です。
さらに若さやエネルギーを吸い取るという作業を竜宮でやって、妙な騒ぎになるのも面倒ですから、とりあえず「玉手箱」という請求書をつけて地上に送り返す。そこで例の「箱を開けってはいけません」の魔法が効いて、請求書を開くと同時に若さとエネルギーが支払われるという仕掛けです。
竜宮にさえ行かなければ浦島太郎がとうぜん過ごしただろう残り30年余りの歳月
なかなかよくできた仕組みといえます。
この流れで、もう一度、物語を書き直してみましょう。
【少年革命家ゆたぼん現る】
「少年革命家ゆたぼん」を名乗る男の子のYoutube動画がテレビ等でも取り上げられ、随分と話題になったようです。
ゆたぼん君は小学3年生から不登校になった沖縄県在住の10歳の男の子で、YouTubeなどを使って「不登校は不幸じゃない」など、威勢のいいメッセージを発信しています。
私はしばらく前にテレビか何かでちらっと見ただだけで、大して興味もなかったのですが、話題になっているうえに炎上中と聞いて、遅ればせながら見てみる気になりました。
新聞によると、ゆたぼん君が不登校にいたった経緯は、
「宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え『俺までロボットになってしまう』と、学校に通わないことを決意した。現在も『学校は行きたい時に行く』というスタイルを貫いている」(2019.05.05琉球新報)
とのこと。
ネットやテレビでは「さしたる理由もなく登校しないことの問題性」や逆に「勇気ある子どもの発言を匿名の大人たちが封じることの是非」などが議論されたようですが、やがて背後に見え隠れする父親のきな臭い話ばかりが目立ってきて、現状はどうやら騒動も終焉に向かいつつあるみたいです。
だから改めてほじくるわけではないのですが、ゆたぼん君が提起した問題が何も解決しないままに忘れ去られるのはやはりもったいないような気がする、せっかく盛り上がったのだから、ゆたぼん君のような生き方をどう考えるかは、もうすこし時間をかけて話し合ってもいいことではないのかとももうのです。
【親も含めて、ゆたぼん君を支持するまやかしの人々】
結論から言うと、私はゆたぼん君のような子どもにきちんと話をし、学校に行きたくなるような子に指導し直すしっかりした大人がそばについていなくてはならないと思います。
現在の日本では学校に行かないことのメリットはほとんどありません。よく「自殺するくらいなら不登校の道を選べ」といった言い方をする人がいますが、それは極端な状況での話で、たいていの子どもたちが「学校に行きたくないな」と思うのは大したことのない理由からです。
なぜそんなふうに断言できるのかと言うと、私たち大人でさえ「仕事に行きたくないな」「会社、休みたいな」と思う原因の大半が“大したことない”事情によるからです。
あの上司の顔を見るのは嫌だな、仕事が溜まっていて辛いな、二日酔い厳しいな、連休が長すぎて心身共に動きが鈍いな、といった感じです。
それを「行きたくなかったら行く必要なし」「いやいや行くのはかえって不幸」と言っては身も蓋もありません。私は児童生徒としては学校が大好きで、職業人としては仕事が大好きでした。しかし行きたくないと思ったことが一度もないかと言えばそうではありません。
いやいや行っている期間があったので、楽しく面白い瞬間にも出会えたの、それは苦しい練習を重ねたからこそ記録が出せたとか、長い修行時代に耐えたからこそ誰からも尊敬される職人になれたといったのと同じです。嫌だと思うたびに逃げ出していたのでは話になりません。
いやだったら止めればいい、好きなことをやってこそ人は伸びる、行きたくなければ学校なんか行かなくてもいい――そういった“良いとこ取りの人生”を推奨する人には、必ずどこか怪しいところがあります。
苦しいことを避けて通ったばかりに陥った不遇の穴に、他の人間もどんどん落ちてくればいいと考える冷酷なアリジゴク。他人を応援しているように見えて、実はひたすら自分を肯定したい観念論者。
人生の大半を才能だけで生きてきて、気持ちさえあれば何でもできると誤解している超エリート。相手の意に沿うことだけを言って入れば商売になると踏んだポピュリストタイプの心理カウンセラー、専門家。
視聴者の聞こえのいいことだけで番組や出版物を制作し、視聴率や売り上げを伸ばそうとするメディア関係者。みんな偽物です。
あれこれ立場はあるかもしれませんが、そもそも今後70年も80年も生きる10歳の少年の、わずか数年の人生経験(というのは3歳~4歳まではほとんど夢の中なので)から導き出した「学校に行かない」という決心、それをそのまま肯定できる人間の気持ちが分かりません。
彼らは本人が決めたことなら「自殺する」という決心も、密かに支持しているのかもしれません。