大阪市立桜宮高校の生徒自殺事件始まった体罰問題の追及は、柔道のオリンピックコーチの事件にまで発展しなかなか終息に至りません。もちろん隠された体罰が続々と出てくるのが主な原因ですが、これまでの学校問題(いじめや不登校、学力問題など)とは異なり、世論が一致して“体罰はだめだ”とならないことも、この問題の居心地を悪くしています。追及の軸が揺らいでいるのです。
なぜ一致して“体罰はだめだ”ということにならないかというと、これには二つに理由があります。
ひとつは、子どもの悪行にも罰が必要だという懲罰論です。
学校というところは罪と罰の関係が非常にあいまいなところです。かつてはそうではありませんでしたが、現在はそうなっています。
私が子どものころはいくらでもあった体罰は(ゼロにはならないにしても)ほとんど行われていません。宿題をやってこなくても「宿題忘れ一覧表」みたいなグラフを掲示されて辱めを受けることはありません。公共物を壊しても、よほど明確な悪意をもってのことでない限り、弁済を求められることもないのです。罰としての廊下に立たされることも便所掃除もありません。あるのは教師たちによる辛抱強い説諭だけです。しかしそうした状況に対して、それでもやはり子どもは罰を受けるべきだという人がいるのです。そして有効な懲罰のアイデアがない以上、体罰があっても仕方がないと彼らは考えます。
もう一つの理由は、多くの人々、特に体育会系の人々が、それによって何らかの利益を得た(あるいは利益をもたらすことができた)と信じるような経験をもっていることです。それは非常に神秘的な体験で、だからこそ人々はそれにしがみつきます。
人間の能力が高まっていくとき、そこには一種の跳躍現象が起きます。能力の伸長は右肩上がりの長いだらだら坂ではなくいわば不揃いの階段で、長い停滞のあと突然ピョンと伸びるのです。
スポーツの世界は特にわかりやすいのですが、たとえば170㎝という走高跳の記録を持っている選手は172㎝に記録の壁を感じています。170㎝は何回でも跳べるのにそのわずか2㎝上は絶対に跳べない、一貫してそうなのです。
ところがある日、何かの事情で172㎝をクリアする。するとかつてあれほど苦労した172cmはなぜかいくらでもクリアできる平凡な記録になり、今度は174㎝が壁になります。能力が伸びるというのはそういうことの繰り返しです。
野球でいえばこれまで打てなかったボールが打てる、バレーボールでいえばこれまで捕れなかったボールが突然捕れるようになる、サッカーやバスケットボールでいえばこれまで入らなかったボールが入るようになる、それらは常に突然のことなのです。
こうした一種の超常現象を手に入れるために何をすればいいのか、選手はよく分かっています。それは異常な努力や勇気、そして自分が成し遂げることへの異常な執念です。
ただし人間は弱い。それが目の前にあると知っていても、異常な努力や勇気・執念を自分一人で支えることは容易ではありません。
そしてそこに第三者が現れます。
(この稿、続く)