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「インクルーシブ教育の行方」~十分な予算をつけずに行うインクルーシブ教育は野蛮な統合教育

「世の中英語ばっかりでワケわかんねー」とか言えば年寄り扱いされそうなので言いたくはないのですが、「インクルーシブ教育」というものが分からず、少し調べてみました。統合教育と何が違うのか分からなかったのです。

 また、インクルーシブ教育を主張する人たちはしばしば特別支援学校や特別支援学級を“差別”と捉えて目の仇にしますが、私にとってそれらは非常に優れた教育システムなのでこうした認識の差がどこから生まれてくるのか、改めて考えてみたい気もしました。

 さてそうやってみると「インクルーシブ教育」を明確に定義した文章はなかなか見つからず、強いて最大公約数を取るとこんな言い方になります。
「インクルーシブ教育とは、二分法(障害がある・障害がない)での分離学習を進めていく教育ではなく、相違が基準であると捉え、個々に持っている特別な教育的ニーズに対応し、統合型環境で教育を進めていくものである」
 確かにそうした立場から見ると、支援学校も支援学級も分離学習ですから目の仇にされても仕方ありません。支援学校や支援学級がある限り、インクルーシブ教育は実現しないのです。

 しかし私の立場からすると「個々に持っている特別な教育的ニーズに対応」するためには、分離学習しかありません。現状のまま障害をもつ児童生徒が普通学校および普通学級に投げ込まれると、“その子の利益”が損なわれてしまうのです。

 具体的に言って、例えば1学年100人規模の中学校で総合テストをすれば、下から5番以内に特別支援学級の生徒はいません。なぜなら支援学級の生徒はそこで手厚い指導を受けており、基本的な問題について着実に点を取っていくからです。下から5番目より上にいれば、進学できる高校も見えてきます。

 一方、普通学級に在籍する学習困難な生徒は、解けもしないハイレベルな問題に日常的に晒され、傷つき、本来はできるはずの基礎問題の練習時間も奪われています。これでは子どもがかわいそうですし、力も伸びません。

 そこでインクルーシブの人たちは、だから「個々に持っている特別な教育的ニーズに対応」しろ、といいます。具体的には施設や機械を拡充し、人を入れろということです。

 実際問題として車椅子の子の中には、校舎のあちこちにスロープがあって専用のエレベーターかリフトさえあれば普通学校で授業に参加できる子が少なくありません。重い肢体不自由の子も、介添えがあれば教室での授業が受けられるようになります。要するにインクルーシブ教育の半ば以上は、金の問題なのです。

 そこでたとえば、文科省は平成19年度より特別支援教育支援員の制度をつくり、予算措置をとって全国に配置し始めました。23年度予算で言えば、幼小中高に合わせて38800人(義務教育は約34000人)443億円の事業です。しかしそれは十分なものでしょうか。

 全国に小中学校はおよそ32000ほどあります。単純に計算すれば各校に一人以上の配置ということになります。しかしそれでは圧倒的にたりません。障害を持つ子の中には1対1でぴったり支援しなければならない子も多いのです。また443億円を38800人で割ってみると一人114万円ほど、あまりにも少ない報酬です。

 インクルーシブ教育は理想です。しかし“完全に”という意味では実現不可能な理想です。お金がかかりすぎます。

 しかし最近、議会でもインクルーシブ教育に関する質問が出たようで、その口調は「なぜ、特別支援学校・支援学級といった差別を許すのか」といった感じだったそうです。十分な予算をつけずに行うインクルーシブ教育は野蛮な統合教育であり、担任も苦しめば児童・生徒も苦しむ、そして障害を持つ子自身が最も苦しむという事実を、議員は知らないのです。そうしたことも、社会に常に訴えていかなければならないことだと思います。