カイト・カフェ

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「本の話」~知識を役立たせるには、膨大な智の蓄積が必要だ

 私が大学生になったころにはまだ「学生は本を読むものだ」という気風があり、「卒業するまでに読んでおかねばならない本がかなりある」という思い込みがありました(ただし後から考えるとそうした思い込みを持っていたのはかなりの少数で、実際には大学のレジャー化はかなり進んでいたのかもしれません)。

 1年生で死ぬほど単位を取って暇になった2年生のとき、そうした義務感と「一体人間はどれくらい本が読めるものか」という好奇心から一日一冊の目標を立てて一年間挑戦することにしました。
 ところがこの目論見はあっという間に頓挫してしまって(何しろドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に一週間もかかったりしたので)、ハイネやリルケの詩集を一日10冊といったズルをしても追いつかないことはすぐに明白になってしまったのです。
 そこで三日で2冊、年間250冊という目標に変え、さまざまにズルも重ねながらそれでも結局、1年間で252冊を達成することができました。
 そのとき読んだ本はほとんどが残っていて今も私の本棚にあります。そのうちの200冊ほどが文庫本なのですが、ところで200冊の文庫本って本棚に入れるとどの程度になると思いますか? 
 これが何とスチール本棚の2段と少々に収まってしまうのです(文庫本にもかなり厚いものもありますが平均すれば1cm未満。スチール本棚は幅80cmですので1段に90冊前後は入ります)。

 私がそのとき考えたのは、この200冊の本の量から考えると、街の小さな本屋さんでもざっと5000点以上の本があるだろうということ、そしてその本屋1軒分ですら、私は生涯をかけても読みきれないだろうということです。
 暇な大学生でも250冊がせいぜい、職業と家庭を持った上での読書となると100冊も読めないでしょう(実際にはもっともっと少なかった)。仮に100冊読んだとしても50年でようやく5000冊です。

 目の前にこんなにすばらしい智の宝庫があるというのに、それを汲み尽くすことなく死んでいくのかと思うと何だかほんとうに絶望的な気持ちになりました(当時は私も若かった)。

 もうひとつ。
 一冊の本を読んで知識としていつまでも残っている内容となると、その百分の一もないでしょう。しかし非常に効率の良い頭で百分の一残っていたと仮定して、そのうち現実世界でその知識が役に立つ確率は何%ほどでしょう。
 この点について教員は非常に有利で、授業や生徒指導の場で知識が役立つ確率は非常に高いものがあります。おそらく蓄えた知識の十分の一くらいは役に立つでしょう(これってものすごく高い確率です)。

 すると都合、読んだ本の1千分の一だけが役に立つということになります。全体としてはものすごく効率の悪い仕事です。しかし智というのはそういうものだと考えるしかないでしょう。

 昔、小説家の高橋和巳がこんなことを言っていました。
「漁をするのに一匹の魚が引っかかる網目はせいぜいが3〜4目。しかし3〜4目しかない網を海に入れる漁師はいないだろう。一匹の魚を獲るために膨大な網を広げる。それと同じように知識を役立たせるには、膨大な智の蓄積がなければならないのだ」

「ところでこの勉強、何の役に立つの?」と訊く子がいます。そんなときはこの話をすることにしています。