カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「トイレの紙は25cmまで」~一見不合理な事項にも実は理由がある

 学校のきまり、あるいは伝統的に伝えられてきていることには全て合理性があります。少なくとも合理性のあった時期があります。
「トイレの紙は25cmまで」
 これは以前、雑誌の「学校のあきれた校則」といった特集で扱われたものですが、この校則、30年ほど前はしごく当然のものでした。それどころか日本全国どこに行っても似たような話があり、中にはトイレに25cmの紙のスケールを貼って、長さが計れるようにしていたところもあったといいます。

 レストランだって一流ホテルだって似たようなものです。1973年、日本中の商店からトイレットペーパーがなくなるという恐ろしい経験をした人間なら、誰でも覚えていることです。確かにそんな大昔の決まりが残っていたということには問題があるかもしれませんが、管理好きのアホな教員がまたアホなことを考えた、といったニュアンスで報道されるのはかないません。 

 つい先日、誰も知らなかった「決闘罪」というのが子どもたちの「タイマン」に適用され、びっくりさせられましたが、決まりには「よほど必要に迫られない限り、そのままにしておいた方がいい」という原則があります。「トイレの紙は25cmまで」もそんなことから残ったものでしょう。国の刑法だってかなりあやしいものです。
閑話休題

 このことを思い出したの一昨日の職員会議で「地区児童会を学校で」という保護者の希望に対して、校長先生が「それにはそもそも学校から地区に移行した事情がある」というお話をされたことと関係があります。一部の保護者から訴えがあったからといって、安易にことを変えられない事情が学校にはあるということです。

 学校教育は近代教育だけでもも150年近い歴史があります。その間に不要なものは自然と消え、必要なものは残ってきます。非常に忙しい世界のことですから、基本的には自然に、合理的な方向に進むのです。ただし、なぜそうなっているのかについて私たちに知識がなかったりうまく説明できずに来ていることはたくさんあるので、世間の人たちからいきなり質問されたり要望が出されると、思わず引いてしまうことも少なくありません。しかしだからといって、今あるものを簡単に変えると思わぬ不都合を思い知らされることもまた多いのです。

 前年度踏襲を嫌い何でも新しくしない時の済まない人もいますが、一旦今あるものの価値を吟味してからでないと変えられないものの方が多いように私は感じています。保守反動といえばそれまでですが。

土俵開き

 昨日の土俵開きの記事が二紙に載りましたので裏に貼っておきます。そんなことは言っていないのに「遊具が撤去されてスペースが空いたので・・・」といった書き方をされて腹を立てています(S新聞)。それに私が6年生に勝ったことが記事になると思っていたので、こちらについても腹を立てています(M新聞)。家族にも振れ回ってしまったので・・・。