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「子どもと大人が互角に戦える場は”勉強”の世界にない」~なぜパズルには打ち込めるのに勉強はダメなのか③

 頭がいいという状況の基礎には、高い記憶力がある、
 そして各々の生来の記憶力には、圧倒的な差があるのだ。
 記憶力の弱い人に“勉強”は楽しめない。
 しかしゲームの世界のほとんどは、記憶力を問わない、 
という話。(写真:フォトAC)

【頭がいいとはどういうことか】

 頭がいいというのはどういうことか――こういう「完璧な答えでなくてもいいこと」を訊くのに、生成AIはとても便利です。マイクロソフトのAI:Copilotはこんなふうに答えます。
「頭がいい」とは、一般的に知識や理解力、問題解決能力、創造性、論理的思考力などが優れていることを指します。具体的には以下のような特徴が挙げられます:
知識の豊富さ:幅広い分野にわたる知識を持ち、それを適切に活用できる。
問題解決能力:複雑な問題を分析し、効果的な解決策を見つける能力。
創造性:新しいアイデアや視点を生み出す能力。
論理的思考力:論理的に考え、結論を導き出す能力。
学習能力:新しい情報やスキルを迅速に習得し、適応する能力。
これらの要素が組み合わさることで、「頭がいい」と評価されることが多いです。あなたはどのような場面で「頭がいい」と感じますか?
 なるほど、なるほど。一応、基礎となる回答としてはこれでいいでしょう。その上で「頭がいい」という状況についてさらに考えていきます。

【基礎の基礎に暗記力がある】

「知識の豊富さ」「問題解決能力」「創造性」「論理的思考」「学習能力」、とりあえずこの五つの複合体が「頭がいい」ということだとして、その中でももっとも基礎的で重要なものは何か、というと、おそらく「知識の豊富さ」です。知識というのは道具であり材料ですから、不十分だと「問題解決」だの「創造性」だのといった話には進まないのです。
 私などなどはさしずめボーっとした料理人見習いで、道具はなくす、やり方は忘れる、手元にある食材は何のために買ってきたのか思い出せない――こんな調子では何も始まらないのに、昨日はグラタン、今日はポトフとか言われても困るだけです。これっぽっちも楽しくない。
 英単語をあっという間に覚えてしまう人は、構文を暗記する場面で単語の組み合わせを覚えようと専念できますが、私などは単語の暗記のやり直しまで同時にしますから、労力もかかる上に知識も定着しません。

 学校では社会科の先生が「社会科は暗記科目ではありません。年号なんて覚える必要はない」とか言ってそれは半面で事実なのですが、簡単に暗記できるなら暗記しておいた方が便利です。
 例えばアメリ南北戦争1861年から1865年までの戦いだったことを暗記している人は、日本史で1853年にペリーが開国し1858年に日米修好通商条約は結んで対日通商の先頭を走っていたアメリカが、そのあと忽然と教科書から消え、戊辰戦争(1868年~1869年)という大儲けの機会にもまったく顔を出さない不思議を、不思議とも思いません。覚えるつもりもないまま覚えてしまった年号を組み合わせてたちどころに、
「それどころじゃなかったんでしょ」
 という話になります。
 問題解決したつもりもないまま問題解決をしてしまったとも言えますし、日本史と世界史の接点が見えているわけですからそこから何か思いついて創造性を発揮する場合もあるでしょう。
 1854年に再来日して日米和親条約を締結してアメリカに向かったペリー艦隊の旗艦サスケハナ号にはひとりの日本人が潜り込んでいた、彼はやがてリンカーンの外交顧問となるがこれから対日外交というときに南北戦争に巻き込まれ――と、そんな脚本を書いて真田広之さんに見せれば、『SHOGUN 将軍』に続く2匹目のドジョウとして採用してくれるかもしれません。

【記憶力があるという人の記憶力はハンパじゃない】

 コンピュータの開発者のフォン・ノイマンは異常な記憶力の持ち主として知られていました。
日本でも「枕草子の冒頭は?」と問われて「春はあけぼの~」とか、「徒然草は?」「徒然なるまま日暮らし硯に向かいて~」とかいった古典の冒頭分を問題とする教養遊びを、高校生くらいの時に一度はやるものですが、欧米でも似た文化はあるようで、フランツ・カフカの「変身」の冒頭「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、自分がベッドの中で巨大な毒虫に変わっているのに気づいた」とか、ジョージ・オーウェルの「1984年」の冒頭「「4月の冷たい明るい日で、時計が13時を打っていた」とかがよく使われるみたいです。ところがフォン・ノイマンディケンズの「二都物語」の冒頭を訊ねた友人は、とんでもない目に遭います。ノイマンはしゃべり出したら止まらないのです。そこで、
「おまえ、全文暗記しているの?」
と問うと、
「生まれてからこの方、読んだ本は全部暗記できるよ」
 天才の記憶力というのはこういうものなのです。

 私にも思い出話があります。以前このブログにも書きましたが、東大医学部の学生3人と麻雀を打ってひどい目に遭ったのです。やり始めて間もない段階で、この人たちが2か月前の麻雀のある局面について、
「あの時あの牌を切ったのにはどんな根拠があったの?」
みたいな話が平気でできる人たちだと気づいたのです。私など2分前に切った牌の根拠さえ覚えていない。それからはまるで勝てる気がしなくなって、実際にぼろ負けして、ホウホウの体かえってきました。

【子どもと大人が互角に戦える場は“勉強”の世界にはない】

 私がいま考えているのは「ゲームの大部分は記憶力の良し悪しに左右されない」ということです。東大医学部生との麻雀の話も、彼らの記憶力がいかに優れているかを示したかっただけで、勝負に負けたのは記憶力の問題ではなく、途中から恐ろしい人たちと麻雀をしていると気づいて気おくれしたのと、そもそもあらゆるギャンブルに弱いからです。普通の人だったら互角の勝負ができたはずですし、経験年数だけで言ったらこちらの方が上です。記憶力の問題ではない。
 もちろんクロスワードパズルのように知識を求められるものもありますし、ポケモンゲームのように高度な戦いをしようとしたら記憶力も必要な場合もありますが、なくても楽しく遊べる。
 私がいまハマっているナンバープレースナンプレ数独)も知識の問題ではありません。根気は必要ですが暗記は必要ないのです。そして世の中の大半のコンピュータ・ゲームは知識がなくても楽しく遊べるようにできています。
 私の孫のハーヴ(10歳)は父親の妹夫婦(本人にとっては伯父伯母)とチームを組んで、ネッゲームでしょっちゅう遊んでいますが、10歳と30歳代夫婦が互角に戦える場は、“勉強”の世界にはないのです。
(この稿、続く)