カイト・カフェ

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「老いた地区の、老いた人々の町内会」~社会三悪の行方①  

 日曜日の朝、町内会の回り番で公民館の掃除に行った。
 私の組からは年寄り3名のみの参加。11軒もあるというのに。
 間もなくこの組も消滅するだろう。
 私たちが殺すからだ。
という話。(写真:フォトAC)

【老いた地区の、老いた人々】

 昨日は朝、町内会で輪番の公民館清掃があり、年一回のお役目に行ってきました。私の組からはたった3人の参加でこぞって高齢者です。それに対して一緒の輪番となっているもうひとつ組は20数人の参加、しかも平均年齢が30代前半と見える若々しさで、何かものすごく羨ましい感じがしました。
 
 私の組は40年ほど前、ある住宅メーカーが造成した新興住宅地で、私自身はそれから10年ほど遅れて、造成地の片隅に家を建てて組に加えてもらったクチです。ただしそれでも年齢的には近く、子育ても一緒、お互いに助け合いながらやってきた感じがあります。だから近所づきあいも楽しかった――。
 元旦には寒風の元、路上で簡単なつまみを持ち寄って乾杯・新年の挨拶をしたり、秋には日帰りの行楽旅行があったりと、持ち回りの組長は少したいへんでしたが、子どもが20人以上もいて実に賑やかだったのです。
 
 それがひとり、ふたりと転居する人が出て、代わりに入ってきた人がたまたまつき合いにくい人続きで、さらに子どもたちが大人になって出ていくと会ってもこれといって話すこともなくなり、一組の夫婦が亡くなり、高齢すぎるお宅で地域の活動ができなくなって、そうこうしているうちに偏屈なひとりが「俺のウチは町会、抜けるワ」とか言って本当に抜けて区費も払わず、地域清掃にも出て来ず、もちろん組長にもならず、地区にギスギスした空気が流れて、あたりはすっかり枯れた感じになってしまいました。
 しかし私の組はまだましな方で、区内にはひと組まるごとやめてしまったところもあり、組名を呼んでもあちこち番号が飛んでしまいます。実に聞くに堪えない。
 古くからいる人はあまり辞めないのですが新規加入者が少なく、いまや加入率は5割少々のようです。

【社会三悪の残るふたつ】

 ネットで町内会は労働組合・PTAと並ぶ三悪だそうで、労組はとうに辞めてしまった、あとは町会とPTAを潰すだけだ、といった雰囲気がビシビシと伝わってきます。SNSを見ても「町内会をやめても、まったく困ることはない」という記事がいくらでも拾えますが、そんな記述に目を通したあとで公民館の清掃に行ったりゴミステーションの整理に行くのはやはり心地よいものではありません。
「そういう仕事は行政が金を払ってやるべきで、地域住民のボランティアに押し付けるのは筋が違う」
 ハイ、その通りです――と、私も理屈上は賛成していいのですが、だったら町会を抜ける前にきちんと行政に金を出させる算段をしておいてくれればよかったのに、それもしないで出て行ってしまうから。負担はさらに重く私たちにのしかかってくるのです。
 「行政は自ら助くるものを助く」と言うじゃないですか(違ったかな?)。自分たちが自ら守ろうとしない地区に、行政が優先的に予算を回すなんてこと、あるはずがないじゃないですか。結局、熱心な地区に置いて行かれることになります。そして熱意のない地区はますます枯れていくわけです。
 

【ニッキョーソはどこに行った?】

 ニーチェは名著(と言っても私は十分の一も読んでいませんが)「ツァラトストラはかく語りき」の中で、人々に「神は死んだ」「神は死んだ」を繰り返させます。しかし神は自然死したわけでも事故死だったわけでもありません。「私たちが殺してしまった」のです。
「神は死んだ、神は死んだ、私たちが殺してしまったのだ」
と、ひとつながりのものにしてみると、悲劇の深さが分かるはずです。
 そして殺してしまったというと、私が真っ先に思い出すのが労働組合、自分の経歴で言えば日本教職員組合日教組)です。
 もちろん今も日教組は残っていてどこかで活動しているはずですが、絶えてマスコミには出てきません。かつて教育問題では必ずインタビューのマイクが向けられた委員長は、今やだれがやっているのかさえ、まったく知られていないありさまです。
(この稿、続く)