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「この子の七つのお祝いに・・・何が起こったのか」~分かっているようで分かっていない七五三

 明日は七五三。しかしすべての人に関係のある行事ではないので、
 とかく忘れられがち。しかも内容もあまり理解されていない。
 なぜ七・五・三なのか。そして、
 「この子の七つのお祝いに」何が起こったのか――。
という話。(写真:フォトAC)

【明日は七五三】

 明日11月15日は七五三の日です。
 クリスマスや正月と違って対象者がごく限られていますし、プレゼントやお年玉と言った恩恵もすくなく、また、実際には週日の15日ではなく、前後の土日祝日で儀式を済ませてしまう家庭も少なくないので、一般人にはどうしても忘れがちな日となっています。
 私もこのブログを始めて19年になりますが、「七五三」を単独で取りあげてタイトルにしたことはなく、11月15日の夕方なってからニュースで見て「ああ今日は七五三だった」とホゾを噛むことも何回もありました。そのくらい印象の薄い日なのです。

 辞書的な説明だと「七五三」は、
「7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社・寺などで『七五三詣で』を行い、報告、感謝、祈願を行う奉告祭」Wikipedia
ということになります。
 旧暦11月は稲の実りを神に感謝する月で、その月の満月となる15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子どもの成長を感謝し、加護を祈るようになったとあります。11月15日と決まったのは意外と歴史が浅く、江戸中期に5代将軍徳川綱吉が3歳の長男の健康を祈って行ったのが最初、というのが定説のようです。

【実は三つの儀式の集合体】

 ただし「七五三」ひとつひとつの歴史は古く、まず始まったのは3歳の祝い。平安時代のことだったようです。
 当時、赤ん坊は丸坊主で過ごすのが主流で、数え年の3歳になったのを機に髪を伸ばし始めました。そのとき子どもの頭に真綿を乗せて「白髪になるまで健康であること」を祈願した、それが「髪置き」と呼ばれる儀式で「七五三」の起源のひとつだそうです。

 続いて生まれたのが7歳の祝い。これも平安中期に始まったもので、それまで着ていたひもで結ぶタイプの着物から、大人と同じ幅広の帯を結び始める「帯時、ひも落とし」の儀式が起源だそうです。女の子だけの行事です。

 5歳の祝いは平安時代末期から鎌倉時代のころ、武家で男の子が袴を履く行事「はかま着」が起源だといいます。
 もっとも平安時代のうちは女の子も袴を履きましたから男女共通の行事だった時期もあったようですが、間もなく女性が袴を履かなくなり、女児の5歳お祝いも廃ってしまったみたいです。
 それぞれ意味の異なる三つの儀式が江戸時代になって同じ11月15日に行われるようになり、やがて「七五三」と呼ばれてひとつの行事とみなされ、今日では男女の別なく3回行う人も多くなっている行事、それが「七五三」なのです。

【子どもが生き残ることの大変な時代】

 数え年の7歳の儀式はいかにも女の子らしいものですが、3歳と5歳についてはもともと男女別なく行っていたものです。それが女児と男児に振り分けられたのには、5歳の女の子が袴を履かなくなったといった事情以外に、経験的な理由があるように思われます。
 
 NHKの「チコちゃんに叱られる」では「なんで七五三は3歳、5歳、7歳なの?」の答えが、「昔は3歳、5歳、7歳まで生き延びるのが大変だったから」でした。
 数字で言いますと、近畿地方のある墓地の埋葬者(1889年から1945年の)を調べた記録では、
・ 生まれる前の者が26名
・ 1歳未満が45名
・ 2歳未満が6名
・ 5歳未満が9名
・ その他が65名
と、総計151名中86名、実に57%が5歳未満だったのです。
 「数え年で3歳まで生き残ればその先もだいたい生きていける、7歳まで生き延びるとかなり可能性が高くなる」というのは、数字を見ても分かります。

【七五三の切実な喜び】

 古いことわざに「三歳までは神のうち(子どもは数え歳の3歳までは神様のものだから、いつ戻されても仕方がない)」とあるのはいかにも頷ける話ですし、童謡「通りゃんせ」で、「この子の七つお祝いに、お札を納めに参ります」のあとで「行きは良い良い、帰りは怖い」のは、お礼参りをした帰り道は、もう神のご加護が保障されないからだといいます。

 もっとも男の子と女の子を比較すると、女の子のほうが圧倒的に健康的で強壮なことは事実です。「三歳までは神のうち」といちおう3歳で胸を下ろしても、男の子は油断できません。
 だから男の子の三歳の祝いはやめておいて、5歳になって初めて安心して行えるようになった、だから三歳の祝いは女の子のみ、五歳の祝いは男の子のみとなったのではないかと、私は想像しています。
 そう考えると「七五三」、ほんとうに切実な喜びが込められた儀式なのですね。街で通りすがりに会うようなことがあったら、心から「おめでとう」と声をかけたくなりました。