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「私は他人に合わせることを主体的に選んでいる」~日本人は同調圧力に負けてマスクをし続けるのか②

 政府の意向に従って、花の都の上野の杜を顎マスクで歩いている。
 もちろん人通りの多いところや屋内では普通に口を覆う。
 それで誰も何も言わない。
 これが「同調圧力でマスクを外せない国」の姿なのだろうか。
 という話。(写真:フォトAC)

【日本人がマスクを外さないのは同調圧力のためなのか】

 政府は何とかして屋外の日本人からマスクを外したいようですが、外国人観光客が日本に来ずらいといった実態でもあるのでしょうか、それとも外国の会議に出る際、国内を慮って日本人の政治家だけがマスクをしているのが恥ずかしいからでしょうか?
 いずれにしろコロナ禍の初期、あれほど「ウィルス感染にマスクは無効」といったアナウンスがあったにも関わらず、一斉にマスクを買いに走った日本人は、外せという指示にも従いません。

 一方でマスクを外したい一部の人たちは、等質性を好む多くの日本人に互いを締め付け合う同調圧力が働いているからだと言って”遅れた“日本を嘆いていますが、ほんとうに私たちは同調圧力のためにマスクを外せないでいるのでしょうか?

 インタヴューをすれば人々は「他人の目が気になる」と言い、「街の人たちの半数(あるいは三分の一)が外したら自分もマスクを外す」と言ったりします。そこから同調圧力の話が出てくるのですが、コロナ禍初期はまだしも、現在、人間が密集しない屋外でマスクをしないからと言って怒ったり注意したりする人はどれほどいるのでしょう? 仮にいたとしても、それは日本人の一万人にひとりくらいの特別な人なので気にする必要はありません。

 実際に先週の土曜日、上野の美術館に予約時刻よりも15分も早く着いた私は、しばらく顎マスクであたりを散策しましたが、誰も変な目つきでこちらを見たりしませんでした。そもそも私のことを見ていない。

【私は他人に合わせることを主体的に選んでいる】

 昨日も言いましたが、私に限って言えばマスクをするのは同調圧力のためでなく、主体的な同調行動です。ファッションやIT機器を選ぶように、自らの意志でマスク着用を選んだのです。
 もちろん「他人の目」も意識しますが、それは人々がどんな反応をするか心配だということでなく、彼らの意志がどこにあるのかを探らなくてはならないからです。探ったうえで、信念に大きく反しない限り、できるだけ多数派の側に身を置いていたい、余計な争いごとや気づかいさせたるようなことはしたくないという思いから、同調行動をとっているに過ぎないのです。別な言い方をすれば1400年前の聖徳太子の「和を以て尊しとなす」をかたくなに守っているだけのこと、圧力に負けたわけではありません。

 屋外において日本人がなかなかマスクを外さないのは、こうした凡人がこの国では主流だからだと私は考えています。他人はどうでもいい、今はマスクが多数派だからオマエも合わせろと言うつもりもない、ただ私がみんなと同じでいたいのです。

 そうした行動を取りたがる日本人の性向自体が問題なのだというお話しでしたら、筋が違いますから別の機会にしましょう。「いやいや、ほとんどの人がマスクをしているという状況そのものが圧力になるのだ」ということでしたら、それも「多数派はどこまで少数派を慮ってやらなくてはならないか」という別の問題ですからこれも別にします。
 いま話しているのは、2022年暮れの現状で、マスクをつけろという同調圧力がほんとうにあるかどうかということです。

【不満に同調せず、不満を見捨てず】

 私は結局、いまの状況を「同調圧力」という用語を使って説明し非難する人たちは、自分がマスクを外して街中の少数派になる選択ができないことに苛立っているのではないかと疑っています。自分に変わる勇気がないから、みんなの方で変われ、ということです。
 同様のことは、いまの日本社会にはまだまだ年功序列が残っている、だから自分はやりがいのある仕事を任されない、あんな無能の下にいなければならない、出世ができないという人も、それは半分以上が自分の責任で、真の実力社会ではひとたまりもない人たちではないかと疑っているのです。

 もちろん社会的要因で願いのかなわない人もいれば、個人的な能力や努力ではいかんともしがたい場所にいる人もいますから一概には言えませんが、社会の不満に同調することなく、しかも見捨てることなく、そうした人たちの話を聞いて行こうと、私は思っています。