吉野彰さんのノーベル賞授賞式があった。
日本人としては25人目。
21世紀に入ってからの日本の受賞者はアメリカに次いで第2位だそうだ。
それにもかかわらず日本人の英語力は「低い」レベルで、“読解力”は崩壊状態。
これはどういうことだ?
という話。
【英語ができなくてもノーベル賞が取れる国】
一昨日(12月10日、日本時間11日)、スウェーデンのストックホルムでノーベル賞の授賞式が行われ、リチウムイオン電池の吉野彰さんがメダルを受け取りました。日本出身日本国籍を持つ受賞者としては25人目、科学部門では22人目となるそうです。
今月号の「文芸春秋」(新年特別号)藤原正彦『「英語教育」が国を亡ぼす』を読んで初めて意識したのですが、現在外国籍となった二人の物理学者を含めて、24人全員が日本の小中学校、高校、大学、大学院を出ているのです。つまり日本語だけで教育を受けた人たちが受賞者になっている。
中でも2008年の物理学賞受賞者、益川敏英さんは外国語が苦手で(全くできないわけではない)、受賞記念講演でも最初に“I'm sorry, I can't speak English.”と言って笑いを誘っただけで、あとは通訳付きの日本語で講演を行ったと言います。ノーベル賞の受賞記念講演を日本語で行うのは異例だそうです。海外渡航もその時が初めてだといいますからただ者ではありません。
益川先生はこうして、素粒子に関する新しい理論を証明するとともに、日本が英語ができなくてもノーベル賞が受賞できる国であることも証明したのです。
「これからの日本人は英語ができないとグローバル社会を生き抜けない」と主張する人たちに、鉄槌を下したようなものです。
【仮説1:だから韓国はノーベル賞が取れない】
ノーベル賞で思いだしたことがもうひとつあります。韓国です。
しかし、毎年同じ時期に日本人受賞のニュースを見ている韓国の気持ちは複雑だ。
どの国よりも日本をライバル、敵、競争者として強い対抗意識を燃やしてきた韓国だ。BTS(防弾少年団)に代表される韓国文化の流行、そして、スポーツの日韓戦での勝利などで覚えた「勝利の快感」は、ノーベル賞の季節になれば、あまりにも無力に消えてしまうからだ。
(なぜ韓国の科学者はノーベル賞に手が届かないのか 〜日本との教育の違いに思う〜【崔さんの眼】)
韓国の方自身による発言です。
韓国が科学分野で良い成績を得られない原因について、これまで、いろいろな分析が行われてきた。
韓国内でその原因としてよく挙げられるのは(1)基礎科学への無関心(2)民・官の支援不足と研究環境の不備(3)過程より結果だけを重視する雰囲気――などがある。
どれも、うなずける耳の痛い話だ。
私もそうだと思います。しかしこれには同情すべき理由があります。
韓国が近代国家としての歩みを始めたのは第二次世界大戦後、さらに言えば昭和28年(1953年)の朝鮮戦争休戦以後です。
それからわずか六十余年。現在の韓国の隆盛を考えると、基礎科学に時間を割いている暇などなかったことがよく分かります。
とにかく目の前の技術を手に入れ、生かし、結果を出して、その結果の上に新たな技術を重ね――そんなふうに必死にならなければ現在の韓国はなかったのです。
国民の豊かさとノーベル賞、どちらが大事かといえば当然前者です。ですからこれでよかったはずですし、ノーベル賞が後回しになったからといってなんら恥じることはありません。
中国をはじめとして最近ようやく先進国の仲間入りを果たした国々、あるいは中進国と呼ばれる国々はすべて似たような状況です。
日本で最初にノーベル賞受賞者が出たのは明治維新から80年以上たってからです。二人目が出るまで、そこから16年もかかってしまいました。韓国や中国からも、今後続々と受賞者が出てくるはずです。
【仮説2:それでも韓国はノーベル賞を取れない】
ところが、引用した記事の筆者は、問題はそこにあるのではないと言います。
しかし、私の経験から考えるに、根本的な原因は「教育」にあるように思う。
私は1980年代、ソウルで中学、高校に通った。今、振り返ってみると、学生時代に受けた教育は、ノーベル賞とはあまりに縁遠い気がしてならない。あのような教育を受けたら仕方ない、と思うからだ。
まず、理科の授業。私は中学1年から高校を卒業するまで、一度も理科学機材に触れたことがない。教科書にはアルコールランプ、試験管、顕微鏡など、いろいろな機材が登場したが、全て紙面の上での「イメージトレーニング」にとどまっていた。
使い方も含めた化学実験の方法などは、「体験」ではなく、全て「文字」としてだけ頭の中に蓄積されたのだ。
そして「国語」の時間。私は小学生の時、作文が好きだった。たまには先生に褒められたり、校内で賞をもらったりもした。
先生の激励と、賞というご褒美が、私にとって高いモチベーションになったことは言うまでもない。
しかし、3年間の高校時代、国語や現代文学の時間には「作文」するチャンスがなかった。授業中、ただの一度も自分の意見や考えを文章として表現する機会がなかったのだ。
学校では大学入試のための準備、問題集ばかりやっていた。一方的な「入力」だけがあり、自分の意見、発想を披露する「出力」の機会が全くなかったのだ。
私は、日本で同世代の日本人に会うたびに、中高校時代の話を聞いてみた。すると、地域、学校による多少の差はあっても、ほとんどの人は多かれ少なかれ、実験、作文の機会はあったという。
正直、うらやましかった。普通の日本人は、そこに大きな意味があると思わないかもしれないが、そこに韓国と日本の大きな差があると思う。
学生時代に好奇心、興味、モチベーションを感じる経験の有無は、計り知れないほど大きいからだ。
長い引用になりましたが、韓国からノーベル賞受賞者の出ないことについいて、記事はこのように分析しているのです。
【だから韓国はすごいのかもしれない】
ところで、先月話題となった「EF EPI英語能力指数」2019年版で、韓国は何位だったかご存じですか? 100の国・地域のなかで37位です。
日本は53位で「低い」の範疇に入れられているのに対して、韓国はフランスやスペイン・イタリアと並んで「標準的」なグループ。英語を公用語とするインド・香港行政区も仲間です。
PISA2018の“読解力”の様子も見てみましょう。韓国は9位です。
ご存じの通り日本は75の国と地域の中で15位。私などは15位なら立派だと思うのですが世評だと“惨敗”。日本の子どもたちの学力低下には目を覆うばかりということになります。
それに比べると韓国は立派ですね。ちなみに数学的応用力と科学的応用力については今回久しぶりに日本の下になりましたが、これまではほとんど日本の上位にいたのです。
こうなると、引用した記事の筆者には申し訳ないのですが、日本の子どもたちは実験だの作文だのにやたら時間かけているからダメなのだ、好奇心・興味・モチベーションはノーベル賞には結び付くがそれで英語力や読解力が高まるわけではない、韓国のように理科実験をイメージトレーニングで行うような大学入試のための準備、問題集ばかりやっているような学習の方が、よほど英語力や読解力の向上に役立つのではないか――そういった考え方だって出てくるわけです。
(この稿、続く)